おやのことば 4月20日

すっかり春の陽気になりました。

名前も知らない鳥たちのさえずりを聞きながら、早朝の空気を深く吸い込むと、体が内側から目覚めてくるのを感じます。ただ、晴れた日の朝には、まだ少し手足が冷えます。

今朝も、小学生の娘が「手が冷たーい」と言って飛びついてきました。合わせた小さな両手を外側から包み込んで、こすり合わせると、娘の手の表面に赤みが差してきました。しばらくすると、「今度は私の番ね」と言って交代してくれました。

娘の手の外側は、すでに温かくなっていましたが、合わせていた手の内側は、まだ冷たいままです。その手のひらが、こちらの手をさするうちに、少しずつ温かくなってくるのを感じます。

「何でも彼でも扶け合い\が台である」

外側から人に温めてもらうだけでは、手の甲しか温もりません。相手のために自分の手を使うとき、初めて手のひらも温まってくるのです。

おたすけの場面でも同じことが言えるのではないでしょうか。誰かにしてもらうことと、誰かのために尽くすこと。そのどちらが欠けても、冷たくなってしまった人の心を溶かし、事情を解決することは難しい。また、毎日の生活の中でも、このように感じる場面は少なくありません。

娘の手の温もりに感謝しながら、「扶け合い\が台である」というお言葉の意味について、あらためて考えさせられました。(岡)

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