おやのことば 3月26日

原文は「水のさづけ」を戴いたときの「おさしづ」です。現在の「あしきはらいのさづけ」と形式は違いますが、「さづけ」を戴いた者の心得としては、共通するお言葉だと言えるでしょう。

「さあ\さあ\落すやない、戻すやない」

親神様から授けられた「道の路銀」は、目には見えません。落とすことなく、毎日を暮らしていると言えるでしょうか。金庫に納めた財宝ならば、手に触れることもできます。しかし、目には見えない「さづけ」の理は、取り次ぐことによってしか確認することはできない。「この人にたすかってもらいたい」という真実の心で「さづけ」の理を取り次ぐとき、そこに親神様の不思議な働きが現れます。時には、望んでいたものとは違う結果を見せられることもあるでしょうが、現れてきた姿の中に深遠な親神様の御守護を感じるとき、初めて、戴いた「さづけ」の存在を目の当たりにすることができるのです。

目に見えない「さづけ」は、実際には落とすことも探すこともできません。しかし、親神様の働きを信じ、他者のために「さづけ」を取り次ぐ心を失ったとき、「さづけ」の理は、もはやその存在を確認することができないものになってしまう。信仰者としての毎日の積み重ねだけが、信じていることの価値を証することができるのです。

このような意識の必要性は、「さづけ」の理の取り次ぎだけではなく、この道の信仰の全体に通じるものではないでしょうか。このお言葉の後には、「神が返やせと言わん程に。よく\心違わんよう」と念押しされています。世界中をたすけたいという親心と人間への期待の重さに、身の引き締まる思いがする。そういうお言葉です。(岡)

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