
おぼつかない足取りで走ってきた幼児が、誰かにぶつかって尻もちをつく。大きな声で泣きだしますが、ほかに何か楽しいことがあって興味が移ると、次の瞬間にはもうケロッとしています。
相手は誰なのか。どうして、ぶつかってしまったのか。走り方が悪かったのか。こんなことに思い悩んでいる様子はありません。ぶつかったこと自体も、もう忘れてしまったのでしょう。こんな光景を見かけるたびに、このお言葉が心に浮かびます。
「三才児穏やかに暮らす。何よりそこで結構々々」
このような心をもって、きょう一日を生きる。思いもよらない身上や事情に直面し、誰のせいなのか、何が悪かったのか、あの時こうしていれば、と思い悩む自分を振り返るとき、こうした姿勢の大切さを感じます。
原文は、身上の伺いについての「おさしづ」ですが、この道を通る者としての心の在り方が説かれる中で、このお言葉が出てきます。「こうして行かねばならん」と念押しした後で、「三才の心に成って何も要らん、機嫌好う遊んで結構々々。心心配無いよう改め替え」、とお言葉が続きます。
素直に目前の出来事を受け止めて思い悩まない。言葉にするのは簡単ですが、このシンプルな意識の転換が、極めて難しいのです。(岡)