
先週の『天理時報』を読んでいて、高校生のおさづけの理拝戴の記事に目が留まりました。おつとめ衣を身につけた生徒たちの写真を見ていると、いまから二十数年前に、彼らと同じようにおさづけの理を戴いた日が、昨日のことのように思い出されます。
詰所で借りたおつとめ衣は、袴の丈が短く足首が丸見えでしたが、朝から気持ちが浮き浮きしていたのを覚えています。おさづけの取り次ぎ方さえ曖昧な状態でしたが、新たな人生の門出を迎えたような不思議な高揚感があって、いろいろな人に電話で報告しました。このときの気持ちは、いまでも忘れられません。
「まあ/\今日一つの心忘れぬようと、今日一日の日を忘れぬようと、さづけ渡そ」
この後、国外も含めてさまざまな土地へ移り住み、多くの出会いや別れを経験しましたが、おさづけの理を戴いたことが、幾度も心の支えになりました。特に家族の身上などに際しては、ただ心配するばかりではなく、親神様のご守護を祈念する手段を与えていただいていることに感謝するとともに、自らの心づかいや毎日の生活のあり方などをいつも反省しています。
おさづけの理を拝戴した若者たちも、この日の喜びを信仰の糧として、これからの人生を心豊かに歩んでもらいたい。小さな記事に、あの日の感動を思い返しながら、静かに手を合わせました。(岡)