おやのことば 1月15日

「おさしづ」には、繰り返して使われる言葉がいくつもありますが、「不思議」もその一つです。

この言葉の一般的なイメージとは少し違いますが、「おさしづ」の中では、人間の思惑と親神の思召との食い違いを指摘するケースが少なくありません。人間の定規に合わせて考えていては、目先のことにとらわれて、深遠な親神の思召を受け取ることはできないのです。あらためて調べてみましたが、100を超える用例の多くが「普請」と「身上」に関する「おさしづ」であることに、深い感銘を受けました。

きょう一日を家族そろって健やかに暮らす幸せ。春には緑が芽吹き、秋には豊かな収穫に恵まれるといった自然の働き。順風満帆の中で幸せをかみしめ、自然の恵みに感謝することは、それほど難しいことではありません。

しかし、思いがけない困難に直面し、人生の意味を見失いかけたときにも、きょう一日を生き抜いていく。このような意識は、自然にわき上がるものではありません。人間の思惑や理解を超えた、天の定規に照らし合わせて、自分が「いま」「ここ」にあることの意味を問い直す必要があるでしょう。現在の自分は、なぜ「いま」の自分として「ここ」にあるのか。この単純な問いに答えることが、実は最も難しいのです。

この「不思議」を読み解くとともに、親神の思召に沿ってきょうを生きるためのヒントをこれから「おさしづ」の言葉の中に探っていきましょう。(岡)

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