かしもの・かりもの
だれもが自分のものであると思って使っている
したがって、借りものである身体を、貸主である親神様の
この思召に沿わぬ自分中心の心づかいを「ほこり」にたとえ、不断に払うことが求められています。
また、親神様の
「借りる」とは「他人のものを、あとで返す約束で使う」(『広辞苑』)ことです。したがって、かりものである
そして、
【かりもの】
「思うようにならん/\というは、かりものの証拠」(おさしづ 明治21年7月28日)とあるように、病んで初めて身体が自分の思い通りにならないことを知ります。
「たん/\となに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ」(おふでさき第三号 40、135)、「にんけんハみな/\神のかしものや なんとをもふてつこているやら」(おふでさき第三号 41)との「おふでさき」にうかがえるように、かしもの・かりものの教理の背景には、この世は「神のからだ」という世界観があります。
すなわち、神の身体であるこの世の一部をわが身の内としてお借りしているのです。したがって、世界と人体は一つの天の摂理に支配されていることになります。
「思うようにならん/\というは、かりものの証拠」(おさしづ 明治21年7月28日)とあるように、病んで初めて身体が自分の思い通りにならないことを知ります。
「たん/\となに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ」(おふでさき第三号 40、135)、「にんけんハみな/\神のかしものや なんとをもふてつこているやら」(おふでさき第三号 41)との「おふでさき」にうかがえるように、かしもの・かりものの教理の背景には、この世は「神のからだ」という世界観があります。
すなわち、神の身体であるこの世の一部をわが身の内としてお借りしているのです。したがって、世界と人体は一つの天の摂理に支配されていることになります。