(天理教の時間)
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第1280回2024年5月3日配信

そこにある幸せ

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1238回

子どもの頃の心というのは

親ならば、子どもの夢を叶えてやりたいと思うもの。と同時に、こんな風に育ってほしいという望みも当然ある。

共に分かち合う喜び

 

私たちが普段口にする食べ物の、どれ一つとして、神様のご守護によらぬものはありません。鮮やかな食卓の彩りは、まさにご守護の賜物であり、一つ一つの収穫物には、大地と空の恵みがギュッと詰まっています。そして、その陰に、多くの人々の働きがあることは言うまでもありません。

天理教教祖・中山みき様「おやさま」の、次のような逸話が残されています。

 

お屋敷で、春や秋に農作物の収穫で忙しくしていると、教祖がお出ましになり、「私も手伝いましょう」と仰せになって、よくお手伝い下されたそうです。

「麦かち」の時に使う、麦の穂を打つ柄棹には、大小二種類の道具があり、大きいほうの「柄ガチ」は、よほど力がないと使えません。しかし教祖は、ご高齢になられても、この柄ガチを持って、若い者たちと同じようなお働きをなさいました。

明治十二、三年頃の初夏のこと。カンカンと照りつけるお日様の下で、皆が汗ばみながら「麦かち」をしていると、教祖がお出ましになり、手拭いを姉さん冠りにして、共に麦かちをされました。

八十の坂を越えられたとは思えぬ教祖のお仕事ぶりを、皆、感歎の思いで拝見したと伝えられています。(教祖伝逸話篇70「麦かち」)

 

豊かな恵みを共有するには、相互のたすけ合いが不可欠です。収穫の喜びは、ただ一人が利益を得るだけではない、多くの人々と共に分かち合う喜びです。教祖は、八十の年を過ぎてなお、人々と共に汗を流され、この収穫の喜びを共有されました。

教祖は、

「働くというのは、はたはたの者を楽にするから、はたらく(側楽)と言うのや」(教祖伝逸話篇197「働く手は」)

と教えられました。

働くということは、人々が互いにたすけ合い、支え合うことに他ならないのです。

 


 

子どもの頃の心というのは

大阪府在住  山本 達則

 

子どもの頃の心というのは、本当に「素直」で、見えるものをそのままに信じます。テレビで見たヒーローに憧れ、「自分もいつかはあんなヒーローになるんだ!」と、真っ直ぐな目で訴えてきます。世界で活躍するスポーツ選手を見て、「自分もいつかあの舞台で活躍したい!」と、練習に熱を込めます。

そんな子どもの姿を見ると、親として何とも嬉しい気持ちになります。夢を叶えてやろうと、できる限りの応援を惜しまないのが、多くの親の姿だと思います。

その一方で、夢を叶えることの他にも、優しい人に育ってほしい、誰からも好かれるような人に育ってほしい、裏表のないまっすぐな人に育ってほしいなどと望まない親もまた、いないと思います。

そんな親の思いとは裏腹に、子どもは成長するに従って、時に親の望まないような姿を見せることがあります。「学校から帰ったら、真っ先に宿題をしなさい」とたしなめる親の言葉とは反対に、ゲームに興じる。「好き嫌いせずに何でも食べられるように」との親の願いをよそに、好きなものばかり食べる。これらは子育ての中で、多かれ少なかれ、皆が経験していくことだと思います。

幼い頃は家庭の中で済んでいたことが、成長するにつれて、親の目の行き届かない所で、望まない姿を表すことも出てきます。

「親の心子知らず」ということわざがありますが、まさにそういうことでしょうか。しかし、私は四人の子どもを育てる中で、「親の心子知らず」である一方、「子どもは親のいちばん身近な審判である」と感じる出来事がありました。

次男が幼稚園の年長の時のことです。私は天理教の教会長をしていますが、ある日子どもを連れて、上級の教会へ参拝に行きました。上級の教会とは、私どもの教会が設立する上での元になった教会で、神殿も広く、大勢の住み込みさんがつとめ、参拝者もたくさんいます。

ちょうど夕方、神殿の掃除の時間で、何人かの方が白い掃除着に身を包んで熱心に掃除をしていました。次男がなぜか、その様子を夢中になって見ているので、「どうした?」と聞くと、「お父さん、ここの神様は偉い神様なん?」と唐突に聞いてきました。

私が「何で?」とさらに聞くと、「だって、みんな一生懸命掃除してるもん」と答えたのです。私はギクッとしました。

次男はそれまで、神殿の掃除といえば、うちの教会で私が掃除をする姿しか見たことがありませんでした。その私の姿と、この大きな教会での掃除の雰囲気の違いに、子どもなりに「そうか。ここの神様は偉い神様だから、みんな一生懸命、丁寧に掃除しているに違いない」と思ったのでしょう。

私は動揺しながらも、「ここの神様もうちの神様も、みんな同じ神様やで」とその場をやり過ごしましたが、次男は明らかに不満そうな顔を浮かべていました。

私も当番などでその上級の教会に行けば、そこで次男が見たのと同じように一生懸命掃除をする一人ですが、自分の教会ではそうではなかった、少なくとも次男の目にはそのような姿には映らなかったということです。

何とも、次男に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。それだけ子どもにとって親の一挙手一投足は、大きなものなのだと痛感しました。

天理教では、「願い通りの守護」ではなく、「心通りの守護」と教えて頂きます。つまりご守護を頂くには、その願いに見合う心を遣い、行いに表さなければならない、ということになります。

人間誰しも願いはあります。仕事上のこと、健康面、人間関係、そして子どもの幸せ…。人間関係を円滑にしたいと思うなら、まず自分自身が穏やかな、優しい人間になる努力が必要です。仕事で成功したいなら、誰よりも時間を費やし、その望みに応じた努力を続けることが必要でしょう。

子どもを持つ親として、子どもに望むことは当然あります。優しい人に育ってほしい、誰からも好かれる人に育ってほしい、裏表のないまっすぐな人に育ってほしいなど、上げればきりがありません。そう心から願うならば、親としてその望みに応じた行動や言動が必要なのだと思います。

優しい人に育ってほしいなら、自分が親として優しい背中を見せられているか。裏表のないまっすぐな人に育ってほしいと願うなら、自分は裏表のない素直で正直な人間であるか。常に反省することが大切です。その親の背中を見ながら、子どもは自分自身を創り上げていくのではないか。そんなことを思いました。

そして、それは子育てに留まりません。絶対にごまかすことのできない神様との関係において、日々、胸を張れるような生き方ができているか。そうして自らを省みることが、持っている望みに近づく最短距離ではないかと思います。

(終)

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