(天理教の時間)
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第1378回2026年3月20日配信

縁に揺さぶられて

家族円満 中臺眞治
中臺 眞治

文:中臺 眞治

第1377回

慎みの心

良い行いをしたつもりが、誰かに嫌な思いをさせてしまうことも。常に神様の目を感じながら、慎みの心で通りたい。

慎みの心

大阪府在住  山本 達則

 

神様のお言葉に、

「知らず/\の道、分からず/\の道、みす/\の道ある。これ三つ出掛けたらどうもならん。(中略)暗がりの道が見えてあるから、諭さにゃならん」(M24.7.24

というお言葉があります。

自分が知らないうちに誰かを傷つけていたり、嫌な思いをさせてしまったり。教えられたことの意味が分からずに間違ってしまうことや、分かっているのにみすみす間違った行動をしてしまうことも…。これらは、私たちの日常で少なからず起きてしまうことです。

以前、電車に乗った時の話です。私が乗り込んだ時、車内には空席が沢山ありましたが、私は座席に座ることなく立っていました。次の駅に着くと沢山の方が乗り込んできて、たちまち満席になりましたが、そこに後から高齢の女性が乗って来ました。すると座っていた一人の女性がすかさず席を立ち、その高齢の女性に席を譲りました。

高齢の女性は恐縮しながらも席に着き、譲った方の女性も何事もなかったようにドア付近に立ちました。その時、私のすぐ近くにいた若い男性も、同じように高齢の女性に気がつき、腰を浮かせましたが、女性が席を立つ方が少し早かったので、男性はそのまま席に着きました。また、同じくそばに座っていたサラリーマン風の男性は、同じように高齢の女性に気づいていながら、携帯に夢中で気がつかないふりをしているように見えました。

この場面、最初に席を譲った女性に関しては、素晴らしい人だすけの行動であることに疑いの余地はありません。しかし、もう少し広くこの場面を見てみると、席を譲ろうと腰を浮かせた男性にとっては、先を越されてしまった悔しい出来事だったかもしれません。

また、気づかないふりを決め込んだ男性の様子は、私には少し不機嫌なように見えました。本来は自分も席を譲るべきだと分かっていながら、気がつかない振りをしてしまった自分と、即座に譲ることが出来た女性との違いに自己嫌悪を感じていた、とは考えすぎでしょうか。

話は変わりますが、ある時、地域の方々と街のゴミ拾いをさせて頂いた事がありました。普段歩いているだけでは気がつかないゴミが沢山あることに、改めて気づいた一方で、一緒にゴミ拾いをしている人たちの言動が気になりました。

「こんな所にポイポイとゴミを捨てる事が出来る人間は、ろくな人間やない」「誰が捨てているのか分かったら、家の前にまき散らしてやりたい」「こんなやつ、バチが当たったらええねん」などなど…。現に、駅の近くの歩道を、キョロキョロとゴミ箱を探しながら歩いている方が、結局見つからなかったのか、歩道の端っこに申し訳なさそうに、そっと空き缶を置いていく。そんな場面に遭遇したこともありました。

それにしても、街をきれいにするための行動をしながら、自分自身の心を憤懣で汚してしまっている、実に勿体ないことです。

自分ではそんなつもりが全く無いのにも関わらず、どこかで誰かに不満を抱かせてしまっている。先ほどの電車での場面がまさしくそうで、席を譲った女性は何一つ間違った事はしていません。そうした、むしろ賞賛に値するような行動でさえも、自分自身の知らない所で誰かが不満に思ってしまう事があるのです。

また、「こちらの選択が正しい」と分かっていながら、そうできないという事も多々あります。電車の中で、高齢の方に席を譲ったほうが自分自身も気持ちがスッキリすると分かっていながら、行動に移せないこともあるのです。さらには、ゴミ拾いの場面のように、折角良いことをしているにも関わらず、愚痴や不満によってみすみす心を濁してしまうこともあります。

私たち人間には、「心の自由」があります。しかしその自由は、目の前の現象に対してどう考え、どう行動するか、という所までで、その行動に対しての結果はまったく自由ではありません。

その結果を、喜べるような結果に近づかせるためには、「神様から見れば、私の行動はどこかが間違っているのかも知れない」「知らない間に誰かに迷惑をかけたり、嫌な思いをさせているかも知れない」という慎みの心を持つことが大切だと思います。

その思いを持つことが出来なければ、日常の中で「なぜ?どうしてこんなことが起こるんだ?」という疑問を繰り返し、その原因を自分以外の何かに責任転嫁し続けることになりかねません。

まずは、最も身近な家庭の中でも、常に慎みの心を忘れることなく、私たちの日常を大きな視野で見て下さる神様の存在を感じながら過ごすこと。そして、目の前に起こる結果、その元は自分自身の行動にある事を忘れず、本当の「家族円満」に近づきたいと思います。

 


 

御存命の教祖

 

  月日にハせかいぢううハみなわが子
  かハいいゝばいこれが一ちよ (十七 16)

 

  にんけんをはじめたしたるこのをやハ
  そんめゑでいるこれがまことや (八 37)

 

可愛い我が子である世界中の人間に、陽気ぐらしをさせてやりたい。これが親神様の親心です。そして、人間を創め出したその親は、教祖・中山みき様「おやさま」としてこの地上に現れてお出でになる。

教祖は、お姿こそ世の常の人々と異なる所はないものの、そのお心は、親神様のお心そのものです。その教祖の御教えを、全人類の「をや」なる親神様の御教えであると信じることから、天理教の信仰は始まります。

教祖は十三歳の時、三昧田村の前川家から庄屋敷村の中山家に嫁がれました。中山家は代々庄屋を務める裕福な農家で、教祖は村人をはじめ多くの近隣の人々から慕われていました。

誰から見ても模範的な主婦であった教祖でしたが、四十一歳の時、親神様が入り込まれ、「月日のやしろ」となられてからは、まだ小さいお子さんがいるにもかかわらず、内蔵に籠ることが多くなりました。そして、親神様の思召しのまにまに、中山家の蔵にある物を貧しい人々に施すようになり、その施しは次第に常識の範囲を超えて、家財や先祖伝来の土地、また母屋にまで及びました。

こうして食べる物にも事欠く状態が続き、家族と共に貧のどん底に落ち切っていかれたのです。それも全ては、「貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん」との思いと、「この家へやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん。親のたあには、世界中の人間は皆子供である」との深い親心からでした。悩み苦しむ人々をたすけるがために、自ら厳しい道中をお通りになりながら、お屋敷に寄り来る人々を迎えられたのです。

身分の高い人であっても、施しを求める人や世間から相手にされないような人であっても、どんな人でも喜ばさずには帰されんとお迎え下さる。小さい子供にも大人にも、お手元にあるお菓子や果物などをニコニコとおあげになる。

何度もご苦労下さった監獄の中でも、前の道を通る菓子売りの姿を見かけるや、見張りをしている巡査に対してでさえ、退屈しているだろうと、お菓子を買い与えたいと仰る。教えに反対する者であろうが、自らを捕えに来た者であろうが、そんなことは教祖には一切関係がない。分け隔てのない、子を思う親のお心があるだけなのです。

教祖にたすけられ、導かれた人たちは、自然に「おやさま」と「おや」を付けてお呼びするようになったと言われています。全人類の本当の親がいるなら、教祖のようなお方に違いない。お姿は人間と何ら変わることのないお方であるが、教祖こそ、全人類の親である親神様の、この地上におけるお姿なのだと信じる人が次第に増えていったのです。

(終)

 

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