(天理教の時間)
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第1348回2025年8月22日配信

心を込めたサービス券

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1347回

心コロコロ

子どもたちが集まる行事で「ひのきしん」の話をした。すると三男が神殿掃除をいつになく真剣にしてくれたようで…。

心コロコロ

岡山県在住  山﨑 石根

 

一般的に、「社寺などに金銭・物品を寄付すること」を「寄進」と言いますが、天理教では身をもってする神恩報謝の行いをも寄進として神様がお受け取り下さるとして、それを「ひのきしん」と教えられます。

私たちのように教会で生活する者や、天理教を信仰している家庭では、この「ひのきしん」という言葉は、幼少期から身近にある言葉でした。

3月末に岡山市にある大教会で、子どもたちが100人以上集まる大きな行事がありました。

そこで、天理教の代表者である真柱様から子どもたちへ「告辞」というお言葉を戴いたのですが、その中で「親神様への感謝の気持ちを行動に表すことを『ひのきしん』といいます」と説明をされていました。

また、私も子どもたちに神様のお話をする立場にありましたので、その時に同じように「ひのきしん」の意味について触れ、「親神様への感謝の心があるか、ないかが重要なんですよ」とお伝えしました。

つまり、「どんなにたくさんお手伝いをしたとしても、嫌々したり、文句を言いながらしてしまうと、ひのきしんにはならないし、反対に、たとえ落ち葉一枚だけを拾ったとしても、そこに神様への感謝の心があれば、それは立派なひのきしんになるんですよ」と、「行いよりも心が大切」というお話をしたのです。

おつとめと、このお話などを聞く式典が終わると、いよいよお楽しみ行事です。たくさんの模擬店や楽しいイベントがあり、最後のビンゴ大会では、みんな何かしら景品が当たって大喜びでした。とりわけ、この春中学生になる三男は、なんと1000円分のクオカードをゲットし、「やっぱり僕はひのきしんいっぱいしとるけぇなぁ」と、得意気に報告に来ました。

さて、月が変わり4月1日の夜のことです。妻がその日の午後の神殿掃除を、三男がいつになく真剣に手伝ってくれたと、教えてくれました。

私は感心して本人にお礼を言うと、「いや、有り難いと思ってするって知らんかったから」と言うのです。

「え、どういうこと?」と尋ねると、「この前のととの話で、元気な身体を使わせてもらって有り難うと思ってするって初めて分かったんよ。ひのきしんは心なんじゃろう? 僕は心入れ替えたんじゃ」と言うではありませんか。

こういうことを恥ずかしげもなく言えるところが、天然キャラである三男の魅力なのですが、何とも話し手冥利に尽きる反応です。

そして、三男は次のように続けたのです。

「そうやって神殿掃除を頑張ったら、そのあと、お姉ちゃんにUNOで二回もボロ勝ちしたんで。やっぱり運が上がってきたわ!」

子どもの素直さに本当に嬉しい思いがしたのと同時に、神様のお話を伝えた大人の私自身も、もっともっと心がけなければならないなぁと襟を正したのでした。

すると、続けて妻がその日のお昼にあった出来事も教えてくれました。

妻の誕生日を三日後に控えていたのですが、三男が早くも誕生日プレゼントをくれたとのこと。しかも、先日のビンゴ大会で当てたクオカード1000円分を全部くれたと言うのです。

「私は『ええよぉ、自分で使いねぇ』と言うたんやけど、『ええから、お母ちゃんの欲しいもんが分からんけぇ、これで欲しいものを買いねぇ』と言うばかりで、挙句の果てには『僕は欲しいものないけぇ』と言うんよ」

と、妻は照れながら、そして嬉しそうに伝えてくれました。

なんとまあ、心を入れ替えた人は素晴らしいなぁと、私は自然と笑みがこぼれました。

嬉しい出来事はまだまだ続きます。

我が家では、小学五年生から毎月500円のお小遣いを与えるようにしています。この春、五年生になる末娘にとっては、ずっとずっと我慢して、待ちに待ったお小遣い。この4月1日に念願の500円をやっとゲットしました。すると、そのお小遣いの中から、さっそく妻が大好きなチョコビスケットを買って、プレゼントしてくれたのです。

さらに中3のお姉ちゃん。中3になっても我が家では同じく500円のお小遣いです。それなのに、妻の好きなルマンドとプリンをプレゼントに買ってくれて、ほぼお小遣いを使い切っている始末でした。

もちろん妻は妻で、「私は嬉しすぎて、三男からもらったクオカードを、あの子にどうやって返そうかと今、思案中…」と言うので、私は自分の妻、そして我が子ながら感心、感激の至りでした。

しかし、はたと気づきました。実は私の誕生日は3月で、つい二週間ほど前だったのです。

「あれあれ? よう考えたら、ととの誕生日には誰もプレゼントくれんかったで~」と言うと、三男が間髪入れずに答えました。

「それは、まだ心を入れ替える前じゃったんじゃがぁ」

これには一本取られました。

続けて「来年楽しみにしといて」と言ってくれた彼に、「コロコロ変わらず、どうか一年後まで心を入れ替えた状態でありますように…」と、私は祈るように伝えましたが、もちろんこれは冗談です。

そう思ってくれた「心」が嬉しいし、むしろ「心」だけで十分なんです。それが親というものだよなぁと思った時に、人間の親である神様も、きっと「行い」そのものよりも「心」がどうであるかを喜ばれるんだろうなぁと、あらためて感じました。

今日もまた、親神様に感謝の心で「ひのきしん」です。

 


 

御退屈でございましょう

 

教祖は、参拝人のいない時には、お居間にお一人でいるのが常でした。お寂しいのではないだろうか、と考える者は当然いて、そんな信者と教祖にまつわる色々な逸話が残っています。

 

井筒梅治郎さんは、いつも台の上にジッとお座りになっている教祖のご様子に、御退屈ではあろうまいかと、どこかへ御案内しようと思い、「さぞ御退屈でございましょう」と申し上げると、教祖は、

「ここへ、一寸顔をつけてごらん」

と仰せになり、御自分の片手を差し出されました。梅治郎さんがその袖に顔をつけると、見渡す限り一面の綺麗な牡丹の花盛りが見えました。ちょうど牡丹の花の季節のことであり、梅治郎さんは、教祖は、どこのことでも、自由自在にごらんになれるのだなあ、と恐れ入ったといいます。(教祖伝逸話篇76「牡丹の花盛り」)

 

また、ある時、教祖は、村上幸三郎さんに、

「幻を見せてやろう」

と仰せになり、お召しになっている赤衣の袖の内側が見えるようになされました。そこには、煙草畑に、煙草の葉が、緑の色も濃く生き生きと茂っている姿が見えました。そこで幸三郎さんがお屋敷から自分の村へ戻り、早速煙草畑へ行ったところ、煙草の葉は、教祖の袖の内側で見たのと全く同じように、生き生きと茂っていたのです。それを見て幸三郎さんは、安堵の思いと感謝の喜びに、思わずもひれ伏したのです。

というのも、幸三郎さんはおたすけに専念する余り、田畑の仕事は作男にまかせきりでした。まかされた作男は、精一杯煙草造りに励み、そのよく茂った様子を一度見てほしい、と言っていたのですが、幸三郎さんはおたすけに精進する余り一度も見に行く暇がなかったのです。

もちろん、おたすけの日々の中でも、いつも心の片隅に煙草畑のことが気にかかっていました。そういう中でおぢばへ帰らせて頂いた時のことで、幸三郎さんは、教祖の子供をおいたわり下さる親心に、いまさらのように深く感激したのでした。(教祖伝逸話篇97「煙草畑」)

 

さて、教祖は、ある時、梶本ひささんに、

 「一度船遊びしてみたいなあ。わしが船遊びしたら、二年でも三年でも、帰られぬやろうなあ」と仰せられました。海の外までもこの御教えが広まる日を、見抜き見通されてのお言葉と伝えられます。(教祖伝逸話篇168「船遊び」)

教祖がもし自由に船遊びをされたなら、そのご様子はどのようなものであったのでしょうか。想像は果てしなく広がります。教祖はお屋敷にいながらにして、広い世界の様子を、いつでも隈なくご覧になっておられたのです。

(終)

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