
古い家屋の大黒柱を切り分けて、丸太のいすを二つ作って並べ置いたのは、3年前のことです。素人の細工であり、防腐剤も塗っていなかったためか、もう木がボロボロになってしまいました。
先日、木の表面をめくって焚き木にし、採りたてのサツマイモを焼きましたが、そのとき木の繊維を見て驚きました。木の内部が少しずつ腐食してできた空洞が、まるで鍾乳洞のような美しい文様を描き出しています。ここ1年ほど、いすの腐食を気にかけていましたが、私にとっては都合の悪いことであっても、丸太が風化していくことも深遠な自然の営みの一部なのです。
「人間は皆神の守護、神の守護の中に理がある」
私たちは、目の前に生じてきた出来事について、その善し悪しを自分の都合で判断しがちですが、この世界にある生命は、すべて親神様の守護に満たされて存在しています。
たとえ、自分にとって都合の良くない姿であっても、現れてきたご守護の姿の根底には、深い親神様の思召があるのです。
「なぜ、どうして」と思い悩む前に、親神様の守護の中にある「理」について、深く考える姿勢が大切でしょう。
もっと大きな心で、もっとおおらかな視点で、現在の自分と世界を受けとめていきたい。はぎ取った木の断面を見つめながら、こんなことを思い巡らせました。(岡)
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