
少し前のことですが、「どのようなときに信仰の喜びを感じますか?」と問われて、しばらく考えたことがあります。
身上や事情が解決されたときや、子供たちが手を合わせている姿を見たとき、参拝場の清々しい空気を吸い込んだときなど、いろいろな場面が思い浮かんできます。
しかし、素直に喜べないときはどうかと自問を重ねると、やっぱり信仰の喜びの核となるものは、どんな状況にあっても希望を失わず、今日を生きる力を与えられていることに尽きると思うのです。
長い人生には、晴れの日もあれば曇りの日もあります。でも、どのようなときにも、この世界は親神様のご守護に満たされているのです。目の前の出来事の根底に、親神様の深い親心を感じるとき、人生は、世界は意味に満たされていることを感じるでしょう。
たとえ真摯な努力が報われない経験をしたとしても、親神様のご守護に満たされた世界の中では、その努力は決して無駄にはなりません。尽くした真実は必ず受け取っていただけるのです。
「案じたら案じんならん。安心せ」
目の前の結果だけに右往左往するのではなく、表面的な出来事の根底に親神様の深い親心を感じるとき、人生に絶望することはありません。目を覆いたくなるような事件が頻発する、昨今の世相を見るとき、こうした信仰の喜びを世界に伝えていく使命の重さを切実に感じます。(岡)