
人にはそれぞれ、面白い癖や習慣があります。玄関にはいつも右足から入る人、お風呂では必ず顔から洗う人など、いろいろあるでしょうが、私には、救急車を見ると手を合わせる習慣があります。
もう、20年以上前になりますが、救急車が駆けつける現場に居合わせながら、「さづけ」を取り次ぐことができなかった。その時の反省から、たとえ駆け寄る勇気はなくても、「大難を小難、小難を無難に……」と祈るようになったのです。
「たとえ途中にても、泥水でも、身の悪い者あれば、先に三口飲んで、後飲ましてやれ」
原文は、「水のさづけ」を戴いた時の「おさしづ」ですが、「さづけ」を戴き、「押して、水の訳に付願」と伺ったところで、このお言葉が出てきます。たとえ、どこかへ向かう途中でも、忙しい用事の最中でも、「さづけ」を必要とする人があれば、取り次いでほしい。世界中すべての人をたすけたい、という切実な親心を感じます。
「水のさづけ」の取り次ぎは、まずさづけの理を取り次ぐ人が三口飲んで、その水を与えます。たとえ「泥水でも」、さあというときには「飲ましてやれ」。「さづけ」の種類は違っても、この精神は「さづけ」を戴いたすべての人に、共通して求められているものです。私たちも一人のようぼくとして、このような親心に応えることができるでしょうか。
言葉にするのは簡単ですが、実行するのは難しい。きょうも救急車に向かって手を合わせながら、反省を繰り返す毎日です。(岡)