(天理教の時間)
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第1276回2024年4月5日配信

人生最大のラッキー

目黒和加子先生
目黒 和加子

文:目黒 和加子

第1166回

子供たちの遊びの世界

子供たちは独自の自由な遊びの世界で楽しんでいる。そこに大人が妙な定規を持ち出し、介入し過ぎてはいないか。

しあわせデッサン子供たちの遊びの世界
 「人間いきいき通信」2019年9月号より

諸井 理恵

 

私が園長を務めている幼稚園での出来事。四歳の年中さん二人が、大きな積木をお城のように積み上げていました。その様子を遠巻きに眺めていると、突然「ガシャーン!」。一人の破壊者がやって来たのです。せっかく作ったお城は倒壊。私は思わず「あっ!」と声が出そうになりましたが、二人は「あーあ」と言いながらも、なぜかニヤニヤ。倒れた積木を拾って、また作りかけています。

砂場では数人の年中さんが、砂山にトンネルや道を作っていました。そこに、おもちゃの車を手にした侵入者が現れ、砂山を暴走。トンネルや道は崩壊してしまいました。ところが、作っていた子供たちは気にすることなく、別の遊びを始めています。

幼い園児たちの様子を見ていると、自分が子供だったころを思い出します。

私が住んでいた家の隣には雑木林があり、近所の子供たちの格好の遊び場でした。特に、木の根っこを抜いた跡のすり鉢状のくぼ地などは、基地づくりや、おままごとが最高に楽しめるスポットでした。拾った子猫を、木箱にブランケットを敷いて飼ったこともありましたが、基地はたびたび壊され、しばらくすると子猫も、いつの間にかいなくなっていました。

長らく遊び場だった雑木林は徐々に木がなくなり、私たちは資材置き場だった空き地に遊び場を移して、戦隊ヒーローごっこなどをするようになりました。そして、その資材置き場も立ち入ることができなくなると、自転車で遠征して、あちこちの公園を巡るようになりました。

夕暮れまでさんざん遊び、「今日の続きはまた明日ね」と言って家路に就きます。たとえ遊び場が壊されても、子供たちはまた新しい遊び場を見つけるのでした。

監視人のいる、ルールの多い、箱のような遊び場が増えてきた昨今ですが、遊びの環境を問題視する前に、子供の世界に大人が立ち入り、大人の定規で測りすぎていないかということが気になります。

たとえば、積木を積み上げる子は、創造性のある〝褒められる子〟で、積木を破壊する子は、乱暴で将来が心配される子と見なす大人の定規。砂場で縦横無尽に遊ぶ子に対して、「場の空気が読めない子」なんて思う大人がもしもいたら、子供の世界に介入しすぎている、それこそ〝空気が読めない大人〟なのかもしれません。

また、子供の心を想像し、「積木を壊されて、わが子の心が傷ついた!」なんて思う方も、もしかしたらいるかもしれません。けれども、子供たちの様子を見ていれば分かるように、時には壊すことも遊びであり、初めはちょっとショックはあっても、すぐに切り替えて、壊されることさえ楽しんでいる子もいます。「だって、また積木を重ねて遊べるでしょ」。そんな声が聞こえてきそうです。

立派な積木のお城は、大人に写真に撮ってもらうためのものではなく、子供たちにとっては今を楽しむだけのもの。たとえ壊されても、次の遊びを見つけに行くのです。

小学生くらいになると対立やケンカなど、人間関係の小さな崩壊を経験しながら、自分にとって居心地のいい相手を選んでいきます。遊びは決められた人間関係の枠を越え、集団で遊んだり、男女別で遊んだり、二人で遊んだり、一人きりで遊んだりと、内容によってさまざまに変化します。

三歳くらいから、多様な遊びや、人間関係の変容をたくさん経験したことが、どんな環境でも楽しめる居場所を見つける力になっているのかもしれません。たとえ仲間外れに遭うようなことがあっても、自分の内側に引きこもるのではなく、「一人の時間ができた。次は何をしようかな?」と、外に向かって楽しめるくらいに。

どんななかでも「楽しめ、楽しめ」と、神様もおっしゃっていますよ。

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