第1405回2026年9月25日配信
伝えたい思いがある
介護の仕事に携わる中で、発語のない利用者さんを担当することに。どう接したらいいのか最初は戸惑いや不安があった。
伝えたい思いがある
埼玉県在住 関根 健一
私は5、6年ほど前から、友人が立ち上げた一般社団法人の理事を務めています。そして今年、重度訪問介護の資格を取得し、その法人で週に一度、障害のある方の支援に携わるようになりました。
長女に障害があることから、障害福祉の世界には長年関わってきましたが、実際に現場で介護の仕事をするのは今回が初めてです。多少の戸惑いはありましたが、利用者さんと過ごす時間は想像以上に充実していて、とてもやりがいのある仕事だと感じています。
私が担当しているKさんは、娘たちと同世代の青年です。視覚障害と知的障害の重複障害があり、発語もありません。夕方、Kさんが通所している福祉事業所へ迎えに行き、翌日のお昼まで二人きりで一緒に過ごしています。
担当が決まった時、一番の不安はコミュニケーションでした。「言葉が通じない利用者さんと、どう接したらいいのだろう」。そんな私に、長年Kさんを支えてきたスタッフの一人が、こんな話をしてくれました。
「私はKさんのことが、自分の息子みたいに可愛いんです」
その言葉がとても印象に残りました。言葉で会話が出来ない相手を、どうしてそこまで愛おしく思えるのだろう。その理由を知りたいという思いで、私は支援に臨みました。
実際に関わってみると、もちろん言葉が通じないことで不便を感じる場面はあります。しかし、Kさんはとても穏やかな性格で、自分のして欲しいことや嫌なことを、身振りや表情で一生懸命伝えてくれます。
Kさんは、うれしい時、不安な時、安心している時、それぞれ表情や体の動きが少しずつ違います。最初はその違いが分かりませんでしたが、一緒に過ごす時間を重ねるうちに、「今日は何か気になることがあるのかな」「今は安心しているんだな」などと感じられる場面が少しずつ増えてきました。言葉がなくても、人と人は時間をかけて通じ合えるものなのだなと実感しています。
これは決して私の力ではなく、長年関わってきた支援者の皆さんが、言葉以外のコミュニケーションを積み重ね、Kさんとの関係を築いて下さったからこそ、今の私もその延長戦上で関わることが出来ているのだと思います。
重度の知的障害のある方には、発語のない人が少なくありません。かつて、知的障害のある人を「白痴」と呼んでいた時代がありました。
今では差別用語として使われなくなりましたが、その言葉が示すように、「言葉が話せない人は何も考えていない」と思われていたのでした。
しかし、私はそうは思いません。
私の周りには、言葉では話せなくても、支援者がそっと手を添えることで鉛筆を動かし、自分の思いを文章にする人がいます。また、ゲーム機のメモ機能を使って、その日の出来事や感じたことを日記として書き続けている人もいます。その姿を見ていると、人は言葉として発することが出来なくても、必ず内なる思いを持っているのだと感じます。
私がこれまで多くの重度障害者の方と接してきて強く感じるのは、言葉でコミュニケーションが取れないこと自体が不幸なのではないということです。本当に悲しいのは、「この人は何も考えていない」と思い込んだ瞬間に、周囲がその人とコミュニケーションを取ろうとすること自体を諦めてしまうことではないでしょうか。
言葉として発せられなくても、その人の中には思いがあり、願いがあり、感情があります。まず、それを信じることからコミュニケーションは始まるのだと思います。
考えてみれば、私たちは普段から言葉だけで人を理解しているわけではありません。表情やしぐさ、声の調子、その人らしい普段の様子など、様々なものを感じ取りながら相手を理解しています。だからこそ、言葉が話せないという理由だけで、その人の心まで無いものと決めつけてしまうのは、とてももったいないことだと思うのです。
私自身、長女を育てる中で、多くの重度障害者の方々と出会ってきました。その経験から、自然とどんな障害のある人にも、「きっと何か伝えたい思いがある」と考えるようになりました。そうして相手の内側へ意識を向けていると、「もしかすると、こうしてほしいのではないか」と感じられる瞬間があります。
もちろん、それが正解かどうかは分かりません。それでも、親御さんから「関根さんは、この子と通じ合っていると思う」と言って頂けたことが何度もありました。
正解だから通じるのではなく、まず相手の思いがあることを信じ切る。その思いに対して、相手もまた思いやりで応えてくれる。コミュニケーションとは、その積み重ねなのだと私は思っています。
そして最近、このことは信仰にも通じるのではないかと感じています。
ぢばにお鎮まり下さる親神様、ご存命の教祖には、お姿はありません。しかし、確かに親神様の思召しがあり、教祖のお導きがあります。
まず、その存在と神意、神様の思いを信じなければ、ご守護を感じることは出来ません。
日々起こる事情について、「これは親神様のお働きだ」と感じても、それが本当に神意なのかどうかを確かめる術はありません。それでも、自分なりに感じた神意を信じて、そのお心に添って歩ませて頂く時、不思議と道が開けてくることがあります。
相手の心も、親神様、教祖の思召しも、目には見えません。だからこそ、まずは信じて心を澄ます。その姿勢は、信仰にも、おたすけにも、そして人と人とのコミュニケーションにも共通する、大切な心のあり方ではないでしょうか。
これからも親神様、教祖の神意を尋ね続けながら、目の前の一人ひとりの内なる思いを信じ、その声なき声にも耳を澄ませられる人間でありたいと思います。
ひとすじ心
天理教では、私たち一人ひとりの持つ魂は、「生き通し」であると教えられます。そして、そのすべての魂は、もともと純粋無垢な「誠真実」の本性を持ち合わせていると思案できます。
というのも、親神様がこの世界と人間をお創りくだされた元初まりのお話によれば、親神様は人間を創造される時、まず最初に引き寄せられた「うを」と「み」の一すじ心を見澄まして、夫婦の雛型にされたとあります。つまり、親神様の思いにひとすじになれる純粋な性質を、すべての人間は本来的に備えているということです。
であれば、このひとすじ心を、私たちは日々の生活に生かさなければなりません。教祖は、陽気な調べと手振りによって教えられた「みかぐらうた」の中で、
むりなねがひはしてくれな
ひとすぢごゝろになりてこい (三下り目 六ッ)
なんでもこれからひとすぢに
かみにもたれてゆきまする (三下り目 七ッ)
とお示し下さっています。
人間思案による無理な願いではなく、ひとすじ心になって、しっかり神にもたれて歩みを進めるようにとお諭し下さいます。
しかし、ともすれば私たちは、その誠真実となり得る本来のひとすじ心を、ほこりの心づかいによって曇らせてしまいやすいものです。その原因を探ってみると、ほこりの根底には必ず「わが身を中心とする考え方」があることが分かります。
このわが身思案のあるところに、誠真実が現れることはありません。そればかりか、陽気ぐらし世界からはますます遠ざかってしまうことになります。心のほこりを払い、澄み切らせていくことで、人間本来の誠真実が姿を現わすのです。
それにしても、人間の心というのは、コロコロと変わりやすいもの。誠の心が現れたとしても、そうそう長続きはしないというのもむべなるかな。そこで、次のような一連のお言葉を噛みしめたいと思います。
「日々という常という、日々常に誠一つという」(おかきさげ)
「さあ/\続いてあってこそ、道と言う。続かん事は道とは言わん」(M39・5・21)
「変わらんが誠」(M24・4・27)
その場の感激で、一時的に誠の心が現れるだけでは不十分なのです。「日々常に誠一つ」というお言葉を胸に、長く変わらぬ誠の心で歩ませて頂きたいものです。
(終)
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