第1401回2026年8月28日配信
ぢばに伏せ込んで、よく育つ
教祖はよく、農事を引き合いにしてお諭し下されている。「伏せ込み」という言葉もその一つである。
ぢばに伏せ込んで、よく育つ
東京都在住 松村 登美和
私は小学生の頃から園芸、植物栽培が好きでした。なかでも野菜作りに興味があります。小さい頃に住んでいた場所にナス畑があって、朝や夕方、大人の人たちがその日食べる分を収穫する時に、よく付いていった記憶があります。その経験がもとになっているのかもしれません。
小学校の時はクラスの園芸係、中学校の必修クラブは園芸部でした。こうして振り返ると、どんどん昔のことを思い出すもので、高校は天理の学校へ進学しましたが、中学生の模擬試験の折に記入した志望校は、農大附属高校でした。
そんなこんなで、私は今も春になると、何となくトマトやナスを植えてしまいます。最近は「YouTube」という便利なものがあるので、それを見て育て方が簡単に勉強できます。その動画で話している人も皆言うことですが、やはり野菜をうまく育てるうえで大切なことは、「土作り」とか「日々の世話取り」とか「旬」といった事柄がキーワードになります。
去年、おととしはまったくうまく育てられなかったので、今年は春先から気持ちを入れて土作りから始めようと、農業資材の店で堆肥や肥料を買い込みました。そして土に混ぜて準備したのですが、全ての作業が終わってから、堆肥と思って仕入れた袋が肥料であったことに気づきました。急いでいて、よく確認していませんでした。
堆肥とは、落ち葉や動物のふんなどを混ぜて発酵させたもので、肥料ではなく、土を改良するためのものです。結局のところ、種類が違う大量の肥料を土に混ぜてしまったのです。
肥料ばかりが多いと、おそらくうまく育ちません。「やってしまった」と頭を抱えながら、苦肉の策として、隣のスペースを掘り起こし、肥料ばかり混ぜた土をそこに混ぜ込んで、中和をしようと作業に励みました。
一週間後、苗を植えたのですが、少し思いついたことがありました。土の状態が違う場所にそれぞれ同じ苗を植えて、どれだけ育ちが違うか試してみようと思ったのです。苗と一緒にトマト用に調整して作ってある土を買って、それを植木鉢に入れて用意しました。
肥料ばかりの土、中和した土、調整した土を入れた植木鉢の3か所に苗を植えました。ひと月経ってみると、違いは歴然でした。植木鉢の苗は立派にすくすく育ち、幾つか実を着けていました。中和した土の苗は、その3分の2ぐらいの背丈で、花がいくつか着いています。
そして肥料だらけの場所の苗は、植えてから1、2週間まったく育たず、枯れてしまうかと思いましたが、随分経ってから少しずつ伸びてゆき、一か月で小さい背丈ながら花芽が着きました。土の状態で、これだけ育ちが違うのだと改めて分かりました。
ところで、天理教の教祖「おやさま」は、教えを人々にお伝え下さるにあたり、当時周囲に農作に携わる人が多かったことから、農作業を引き合いにして分かりやすくお話になりました。
「みかぐらうた」の七下り目では、
八ツ やしきハかみのでんぢやで
まいたるたねハみなはへる
九ツ こゝハこのよのでんぢなら
わしもしつかりたねをまこ
十ド このたびいちれつに
ようこそたねをまきにきた
たねをまいたるそのかたハ
こえをおかずにつくりとり
と教えられています。
「やしきハかみのでんぢやで」
天理教の聖地、親里ぢばは、親神様のご守護が籠る「田地」つまり田畑である。その親里で、親神様の思召しに適う真実心の種をまけば、見えない徳となって生えて、身に付いてくる。ぢばで真実の種をまいた人は、ゆくゆくは肥料を置かなくても収穫が得られるような不思議なご守護を頂ける、という意味のおうたであろうかと思います。
おぢばは、人が育っていく場所なのだと思います。
先日、ある若い女性が訪ねてきてくれました。パートナーの男性ができて、いずれ結婚をしたいと考えているとのことでした。彼女は小さい頃から学校へ行きづらかった人なのですが、数年間、おぢばで生活する期間がありました。その後も紆余曲折がありましたが、それを乗り越えて、いま幸せそうに暮らしています。
会話の中で「彼氏とケンカになることがあるけど、その日のうちに解決します」と話していました。「どうやって解消するの?」と尋ねると、答えは、なるほどお道の信仰者らしいやり方でした。解決に至る経緯は時間の都合上省きますが、それは教祖がお教え下さっている姿そのものだと思いました。
私は十数年前の彼女の姿を思い起こし、ここまで育ったんだと感慨にふけりました。そして同時に、そのように育った一番の要因は、おぢばでの生活、「伏せ込み」にあると思いました。若い頃、おぢばで過ごした時期に、教えに基づく陽気ぐらしにつながる生き方、物事の考え方や行動の仕方を、知らず知らずのうちに吸収していたのだと思います。
天理教では「伏せ込み」という言葉をよく使います。農業の世界でも使われる言葉です。土地を耕して肥料を施し、種や若い苗をそこへ置いて、しっかり育つように養生するその一連の作業を「伏せ込み」と言うようです。
親里ぢばは、親神様がご守護を下さる、間違いのない根源の場所です。若い時分にその場所で過ごし、伏せ込むことは、将来、その人がまっすぐ大きく育ち、しっかり花が咲き、立派な実が成ることにつながるのです。
赤く実ったトマトを見ながら、そんなことを考えています。
世上が鏡
今朝もじっくりと自分の顔を見つめて、入念にお化粧を施して準備万端、さあ出かけましょう。私たちの何気ない日常の風景ですが、これは鏡という道具なしには出来ないことです。
私たちはなぜか、自分の顔を自分の目で見ることは出来ません。何とも不思議なことです。その代わりに、自分以外の視界に入る外の出来事、あるいは他人のことはよーく見える。そしてそれを利用して、「あれはいい、これは悪い」と色々評価をするのが得意なようです。まさに、「自分の事は棚に上げて」という調子で。「自分のことは自分が一番よく分かっている」と時に人は言いますが、果たして本当にそうでしょうか。
神様のお言葉に、「世上が鏡、いかなるもかりもの、心我がもの、心通り鏡に映してある」(M21・7・29)とあります。
親神様には、私たちの心遣いは鏡のごとくに映り、まさに見抜き見通しであられます。その我がものである心を棚上げにして、いくら見た目を整えても、それでは心通りに映る鏡の方は曇る一方で、日常の行いも危なっかしい方向へ行きがちです。
親神様は、私たちの心遣いや行いを見抜き見通されていますが、これは親神様が私たちを監視して、評価を下しているということではありません。すべては可愛い子供をたすけたい、陽気ぐらしへ導いてやりたいとの親心故のことです。
「いかなるもかりもの」とお教え頂く私たちの身体は、目は見て喜ぶためにあり、耳は聞いて喜ぶためにあり、口は人に喜んでもらう言葉を発するためにあるのです。決して人の評価をしたり、欠点を指摘するためにあるわけではありません。
お言葉に、
にんけんの心とゆうハあざのふて
みへたる事をばかりゆうなり (三 115)
とあります。人間の心は「あざない」、浅はかなので、目に見えて表れてくることばかりにとらわれてしまう。目に見えない「心」を大切にするように、とのお諭しです。人のことをああだこうだと言う前に、まずは自分の心遣いを振り返ることが肝心なのです。
どんなことが起こってきても、それを喜びの心で受け取れるようになった時、一点の曇りもない鏡に親神様の理が映り、その親心が手にとるように感じられ、私たちの心の向きは陽気ぐらしへと建て替えられていくのです。
(終)
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