第1400回2026年8月21日配信
おまもりゲット!
一生に一度しか戴けない「おまもり」。春から寮生活に入る長女に話をすると「いま欲しい」となり、慌てて手続きに走っ…
おまもりゲット!
岡山県在住 山﨑 石根
今年の4月、まさに春爛漫の中、長女が天理の高校に入学し、同時に親元を離れての寮生活が始まりました。
我が家では、既に長男と次男が天理に巣立っているので、初めてでないとは言え、やはり子どもがいなくなるのはひと際寂しさが強いのと、でもどこか嬉しい気持ちも入り混じったような複雑な心境でした。
ちょうど入寮する日の前日が、親戚関係にあたる奈良県の教会の祭典日で、子どもたちと一緒に参拝をしました。その時、私の従叔母が、娘の入学のお祝いに添えて、手作りのお守りを下さいました。これから始まる長女の新生活に対して、私たち親と同じように心配して下さっていることを、とてもありがたく感じました。
その教会からの帰路の車中、これまでお守りをもらったことがなかった娘に、天理教教祖「おやさま」がお召しになった赤い着物を、小さく裁ったものをおさげ頂く「おまもり」について説明しました。
親戚の手作りのお守りとは別に、天理教には、教会本部に願い出て頂戴するお守りがあります。人類のふるさとである「ぢば」へ帰った証拠として渡されることから、「証拠守り」とも呼ばれます。
それは、神社仏閣を拝観した記念にもらったり、お土産として買い求めたりするようなものではなく、あるいは合格や安産を祈願したり、交通安全や商売繁盛を願ってかばんにぶら下げたりするようなお守りとは、全く意味が異なります。
一般的なお守りは、厄除けや色々な願いを込めて、神様・仏様のご加護を身につける縁起物であり、何らかのご利益を目的としますが、天理教のお守りは「心の守りが身の守り」と教えて頂きます。
つまり、何よりも教祖の教えをしっかりと心に治めることが肝心で、自由に使える「心」で教えを守って通るからこそ、神様が大きな困難も小さくして下さるのです。
そういう意味では、先ずは教えが分かるようになることが大切で、何より一生に一度しか戴けないので、私たち夫婦は、子どもが自ら希望した時に、お守りの下附を願い出ようとかねてから考えていました。
「だから、子どもでも持っている友だちはたくさんいると思うけど、我が家はお兄ちゃんも2人とも、まだ持ってないんで~」と娘に伝えると、「とととお母ちゃんは持ってるの?」と、当然の質問が返ってきました。
すると、車に同乗していた妻が懐かしそうに言いました。
「そうや、お母ちゃんもこの時期にお父さんとご本部にもらいに行ったわぁ。お母ちゃんも天理で寮生活が始まる前やったから、お父さん、多分心配やったんやろうなぁ…」
妻のこのエピソードが彼女にも響いたのでしょう。それに、これから自分で身の周りのことをしなければならない寮生活に、不安がない訳はありません。「私は、今、欲しいなぁ」と希望してきたのです。
さあ、大変です。次の日は朝から荷物を搬入する入寮式です。多分、お守りを頂戴しに行くような時間の余裕はないでしょう。
さらに、寮生活が始まると、しばらくはなかなか一緒に行くのも難しいかも知れません。「今日しかない」となった私たちは、急いで関係する教会の先生方に連絡をとり、願書を作成し、大慌てで教会本部へ向かいました。
娘と共に神殿であらためて参拝。受付に願書を提出し、取次の部屋で、御本部の先生から諄々とお守りの意味合いについて説明して頂きました。そして、待望の教祖のお守りを頂戴しました。
お礼の参拝をする前に、「先生のお話分かった?」と尋ねると、「ととの話で予習して聞いたから、めっちゃ分かったわ」と得意気な長女。どうやら本人なりにきちんと理解出来たようで、思いがけないこの日の出来事の展開に胸が熱くなり、神様のお計らい、教祖の先回りを感じずにはおれませんでした。
私は念を押すように、「変な話かも知れんけど、お守りを持ってても、持ってなくても、神様はいつでも私たちを守って下さってる。でも、今日お守りを頂戴したということは、しっかりと教祖の教えを身につけて通りますって、神様と約束したみたいなもんなんやで。寮生活大変やけど、教祖のおそばにいるんやから、大丈夫や!がんばれよ」と、エールを送りました。
日頃からよく思うことなのですが、子育てとは、四六時中監視をして、いつも手をかけるものではなく、時には子どもの力を信じて手放していくことも必要なのかも知れません。
子どもが壁にぶつかった時、勉強につまずいた時、あるいは病気になった時、どんなに代わってあげたくても、親が代わりになることは出来ません。子どもたち自身がそれを乗り越えられることを信じて、見守ることしか出来ないのです。
幼い頃や小学生の時のように、手をつないだり、一緒に作業したり、抱っこしたりおんぶしたり…という年齢ではなくなり、高校生にもなると、どうしたって親から離れていくものです。その時に誰に守ってもらうかと言えば、神様、そして教祖しかないのです。
お守りを頂戴した娘はもちろん、親である私たちも今一度、神様にしっかりと心をつないでいかなければと、決意を新たにしました。
我が家に戻ると、5人の我が子のうち、ついに半分以上が天理に旅立ち、実に静かな食卓になりました。中学生の三男と小学生の次女、今いるこの二人を精いっぱい守っていくことも、私たち夫婦の親としての使命であることは言うまでもありません。そして今、この瞬間も神様にお守り頂いているという大切なご守護の話を、忘れずに伝えていきたいと思います。
出直し、生まれ替わり
天理教において、生と死をめぐる問題を考える時に、「出直し」の教理は欠かせないものです。
『天理教教典』には、「身上を返すことを、出直と仰せられる。それは、古い着物を脱いで、新しい着物と着かえるようなもので、次には、又、我の理と教えられる心一つに、新しい身上を借りて、この世に返って来る」とあります。
この教えを理解するには、まず、人間の身体は親神様からの「かりもの」であり、心だけが自分のものである、と得心することが肝心です。すなわち「おふでさき」によって、
めへ/\のみのうちよりのかりものを
しらずにいてハなにもわからん (三 137)
と諭されるところであり、信仰生活の根底となる教えです。
さらに具体的に、生と死に関して、
たいないゑやどしこむのも月日なり
むまれだすのも月日せわどり (六 131)
しやんせよをやがいかほどをもふても
神のてばなれこれハかなハん (一 61)
と記され、産まれてくるのも親神様のご守護であり、そして神の手離れ、すなわち命が閉じられるのも親神様のお計らいの中にあるのだと示されています。
これは、道の上に生涯を尽くした、あるご婦人の晩年の話です。その方は老境に入り、お孫さんが学校へ行くようになってから、にわかに思い立って文字を習い始めました。
おぼつかない手つきで一生懸命に練習する姿を見て、家族の者が言いました。「お母さんは何も字を知らなくても、神様の御用を立派になさっているじゃありませんか。いまさら特別に字をおぼえる必要などないんじゃないですか」。
するとご婦人は、こう答えました。
「私は、今世では人をたすけさせて頂くお徳を神様から与えてもらったようだけど、本を読んだり字を書いたりするお徳は頂戴出来なかった。今度生まれ替わってきた時には、そうした努力が出来るようになりたい。だから、今から始めて、ちょっとでも来世の種まきをしようと思っているのよ」
そうして、いそいそと字を習うそのご婦人の姿は、まさしく信仰者としての理想の姿のように思われます。
人生はこれきりではなく、過去も未来も現在も、すべては親神様のお計らいによって魂は生まれ替わっていくのであり、その限りなく大きな広がりを自覚した生き方は、何があっても行き詰まることのない、陽気な豊かさに満ち溢れたものになるはずです。
(終)
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