第1391回2026年6月19日配信
生きていることがキセキ
中一の三男が、胸にしこりができ「乳がんかも」と。血液検査をすることになったのだが、本人は注射が大の苦手で…。
生きていることがキセキ
岡山県在住 山﨑 石根
昨年の9月末頃のことです。当時、中学一年生だった三男が、妻に深刻そうに相談してきました。
「僕、乳がんかも知れん。多分、ステージ1…」
突然の告白に、妻は心配よりも驚きのほうが大きかったようでしたが、聞くと一か月前ぐらいからずっと左胸にしこりがあるとのことでした。それは、妻が触れても分かるぐらいのしこりでしたが、本人は自分でインターネットで検索し、症状と照らし合わせながら、そう思ったようでした。
何でも気軽に調べることが出来る世の中になったとは言え、子どもが自分で病気を調べ、その小さな胸でそれを何日も抱えていたことを思った時、私たち夫婦は胸が締め付けられる思いがしました。
とは言え、これまで大小問わず親に相談することが不得意だった彼が、こうしてSOSを届けてくれたことに、どこかホッとした一面も私たちにはありました。
近くの病院の小児科を調べると、ちょうど大きな病院から専門医が来られる曜日があったので、すぐに受診しました。お医者さんからは、「おそらく第二次性徴の関係でしょうが、まれに悪い病気があるので、きちんと血液検査をしましょう」と提案されました。
また、母子手帳に加え、小・中学校での身長と体重のデータを提出するよう指示を受けたので、学校で用意してもらうと、保健室の先生が「本人、打ち明けるまでは本当に辛かったでしょうね」と、とても心配して下さいました。
4日後の10月1日、いよいよ検査の日です。実は、この日まで三男には、病気と同じぐらい心配なことがありました。それは、大の苦手である注射です。待合室でソワソワする彼は、「なあ、鼻血で検査したらダメなん?」と妻に尋ね、「鼻血ってどうやったら出るんやろう」と必死に考えていたようです。
さあ、処置室に入ってからも大変でした。「いや、ちょっと待って」と言いながら、なかなか看護師さんに採血をさせないのです。注射をしようと二人がかりで押さえても動いてしまい、もう一人来てもダメ。4、5人で押さえても、中学生の強い力で抵抗してしまうので、危険だと判断されました。
そこで、「ベッドで落ち着くまで待とう」となり、妻のスマホで思い出の家族動画などを見ながらリラックスしようとしますが、入れ替わり立ち替わり看護師さんが様子を見に来るので、どうしても心の準備が出来ません。
最終的には、本人には寝ながら動画に集中してもらい、妻が押さえながら何とか採血することが出来たようですが、翌週、妻が検査結果を聞くために通院すると、「なんか大変だったみたいですね」と主治医に言われるほど、病院内で噂になっていて、彼は有名人になっていました。
肝心の結果は、ひとまず大丈夫とのこと。しこりが大きくなっていないか、痛みが出ていないかを三か月後に経過観察をしたいと言われ、幾つかの症状をあげながら、それらが窺われたら診察に来るよう指示があったので、手放しでは喜べませんが、親としてようやくホッと出来たのです。
年が明け、今年の一月に再度受診をしました。その日、彼は朝からソワソワのドキドキでした。今回もまた、あの注射があると思ったからです。ところが、今回は問診と触診だけで、彼も「やれやれ」と胸をなでおろし、しかも問題の症状もなかったので、そのまま元気に登校することが出来ました。
こうして結果的に何もなかったからこそ、採血の時のドタバタ劇を笑い話に出来るのですが、渦中にいる時は生きた心地がしませんでした。というのも、子どもに大きな病気を見せられる度に、私は今は亡き祖父のことを思い出すからです。
教会の三代会長である祖父は、16歳の娘を突然の心不全で失っています。この時の心情を、祖父は天理教の月刊誌に執筆しており、「肉親の情として、十六才の若さで花のつぼみを散らせたいとしさ、かわいさがたまらなく、共に過ごした日々の思い出に、押さえきれぬ悲しみがあふれて、何のかんばせあって私の信仰が語れようと、まったく地に沈む思いに苦しみました」と語っています。
しかし、祖父はその出来事から、同じように子どもに先立たれた天理教教祖「おやさま」の道すがらに思いを馳せたのでしょう。そして、神様の親心を悟り、何よりも命の尊さや重さを深く感じ、こんなことで心を倒しては申し訳ないと、懸命にこの道を歩んで、私たちに信仰を引き継いで下さったのです。
奇しくも本年、その祖父の三十年祭を執行しました。思えば、娘を亡くした時の祖父の年齢は47歳で、今の私とほぼ同じ世代です。いま私が子どもが亡くなるという出来事に直面したなら、果たしてこのように立ち上がれるだろうかと想像しても、全く自信がありません。
もとより、人が生まれることも、亡くなることも、全て神様のご守護の世界でなされることですので、どちらが良いとか悪いとかという判断は出来ません。
ただ、一つ間違いないのは、いま私たちが生きていることは神様のご守護があってこそのことなので、感謝の気持ちを片時も忘れてはならないと、改めて痛感したのでした。
私は、少し説教っぽく三男に言いました。
「僕らが生きているというのは奇跡なんやで。9月の時は相当心配やったやろう?」
「ううん、死ぬ可能性があるなぁとは考えてた…」
「ととは今、献血125回してるから、125回は注射してるんで!」
「えっ、そんなに血があるん?」
「違う、血は何回も心臓で作られるんや。それも奇跡なんやで」
「へ~」
「だから、あんたも早く注射出来るようになって、将来献血せなあかんで」
「もう大丈夫」
「ホンマかいな…」
まだ、彼の胸にはしこりがあります。でも、それは私たち親子が、生きていることの奇跡に感謝するために、神様が下さったお手紙かも知れません。先ずは私たち夫婦が、それを忘れないように通りたいと思います。
たすけ合い
親神様は、人間が互いに立て合いたすけ合う、陽気ぐらしを見て神も共に楽しみたいと思召され、人間世界をお創り下さいました。人と人とがたすけ合うことこそ、陽気ぐらしの主要なテーマです。
ただ、お言葉に、
「さあ/\世界でさい互い扶けやいというであろう。内隔ての理を無きよう」(M24・8・5)
とあるように、たすけ合いはこの教えの専売特許ではありません。この「内隔ての理を無きよう」というお言葉、つまりお互いに隔てる心を持たないように、と諭されているところが大切な部分です。
人間は皆親神様によって創られ、その大いなる親心の中で生かされており、私たちお互いは、親神様を等しく親と仰ぐきょうだいであること。この真実を知れば、人を隔てる心を使うことなく、たすけ合いに向かうことが出来るのです。
実際のところ、人は何か不都合なことが起こった時、その重圧ゆえに責任を人に転嫁してしまうことが無きにしもあらずです。しかし、一つの問題というのは、人同士のやり取りの中で、複数の要因から生まれてくるもので、決して個人だけを責められるものではありません。
お言葉に、
「重荷を人に持たせぬよう、重荷めん/\持って扶け合い。この理聞き流しはならん」(M33・10・26)
また、
「重荷を人に持たすやない。重荷という、重荷は、めん/\が持ってするは、これ神の望みである」
とあります。(M33・10・26)
重い荷物を人に押し付けることなく、お互いが分け持って、わが事として対処するのが、真のたすけ合いの姿です。
世界一れつはきょうだいであるという真実に目覚め、重荷を分け合って苦しい中も乗り越えていくこと。そこから、親神様にお受け取り頂ける誠真実が現れてくるのです。
お言葉に、
「これまで運ぶという、尽すという。運ぶ尽す中に、互い扶け合いという。互い扶け合いというは、これは諭す理。人を救ける心は真の誠一つの理で、救ける理が救かるという」(おかきさげ)
とあります。
真の誠とは、何の見返りも求めない、捧げ尽くす行いです。誠の心を一人ひとりが実践することによって、この世界は陽気ぐらしへと近づいていくのです。
(終)
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