(天理教の時間)
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第1293回2024年8月2日配信

「想い出ノート」はじめました

yamasaki
山﨑 石根

文:山﨑 石根

第1281回

ガラポン出来たのに!

正月恒例の家族揃ってのお買い物。お得に済ませようとするあまり、思わぬ心づかいが顔を出してしまった。

ガラポン出来たのに!

岡山県在住  山﨑 石根

 

私の教会では、年末年始に色々な行事があるため、私は子どもたちとゆっくり冬休みを過ごしたことがありません。そんな中、1月4日だけは唯一私の予定が空く日なので、例年この日に子どもたちと買い物に行くことが多いのです。今年のお正月も、この日に朝から子どもたちと買い物に行きました。と言っても予算が限られているので、この日の妻は、新春の特別値引き商品を狙って一日、本気モードです。

まず、アウトレットのお店で子どもたちの冬服を見ます。今回もアウターやパンツなどを手際よく選んで、見事な買い物をしていました。私はおしゃれには疎いので、こういう時は邪魔をしないように見守っているだけです。次第に飽きてくる下の子の相手をするのも、私の大事な役目です。

次に大型ショッピングモールに行きましたが、それまでに洋服の買い物が済んでいたので、ここでは子どもたちが100円ショップで好きなものを買ったり、お昼のお弁当を買って車の中で食べたりしました。五人も子供がいると、レストランで食べるというのはなかなかハードルが高いものなのです。

そして、最後に大型靴専門店に行き、子どもたちの新しい靴をそれぞれ購入しました。もちろん「広告の品」や「特価セール」の靴ばかりですが、子どもたちもその中からお気に入りの物を上手に選びます。そんな中、高校生になった長男だけはファッションへのこだわりがあり、自分のお年玉で買うということもあるので、妻と同じぐらい真剣モードです。

そんな彼が、次のような提案をしてきました。

「これと同じ靴がこっちでは7,000円だけど、さっきのショッピングモールでは4,000円だった」とのことで、もう一度さっきのお店に行きたいと言うのです。正直、私は「またあの人混みの中に行くのか…、車を駐めるのも大変だし…」と少しげんなりしましたが、長男の思いにも応えなくてはなりません。

そして、再びショッピングモールの中の靴屋さんに向かい、お目当ての靴を手にとりました。ご満悦の長男と一緒にレジに並び、会計をしていると、店員さんがお釣りやレシートと一緒に「大抽選会」と書かれた抽選券を4枚渡してくれました。

店内で開催されていたイベントを思い出し、「え?ガラポン出来るんですか?」と尋ねると、「はい。でも5枚で1回出来るので、あと1枚必要ですね。1,000円のお買い物で1枚お渡しできるんです」と店員さん。

「じゃあ無理かぁ」と残念がる私の横で、長男が「いや、一回目来た時に百均で1,000円以上買い物したから、お母ちゃんがその券一枚もらってたで!」と言うではありませんか。

ところが、にわかに希望の光を見出した私に、長男が続けて言いました。「でもお母ちゃん、その券を〝誰かに使ってもらえたら〟って広告の所に置いてたわぁ」。

「え?どういうこと?」すぐに理解できなかった私は、ベンチで休憩する妻のもとに駆けつけ、「さっきの抽選券、どうしたん?」と尋ねました。すると、「1枚だけあっても仕方ないから、入り口の広告が置いてある籠に入れておいた」と言うのです。

「もう!ガラポン出来たのに!」とプンプン怒る私を横目に、「まだ、あるかも!」と、子どもたちがショッピングモールの入り口に向かって走り出しました。が、案の定、無くなっていました。当然です。もう一時間以上前のことなのですから。

「あ~あ、ガラポン出来たのに!」と諦めきれずに文句を言う私に、妻は「だってガラポンは今日までやし、一枚では役に立たんのやから、今日中に誰かに使ってもらったほうがええかなって思ったんやもん」と言うのでした。

車で帰路につく時、ようやく残念な気持ちが落ち着いた私は、ふと、天理教教祖「おやさま」の次のような逸話を思い出しました。

明治七年のこと。教祖に我が子をおたすけ頂き、熱心に信心を続けていた方の家に、ある夜、泥棒が入りました。ところが、物音で気づくことができ、何も盗られずに済んだその方は大層喜んで、その翌朝さっそくお詣りして、「お蔭で、結構でございました」と、教祖に心からお礼を申し上げました。

すると教祖は、「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか」と仰せになり、その方は、そのお言葉に深い感銘を覚えた、というお話です。(教祖伝逸話篇39「もっと結構」)

このお話を耳にする度に、「実際盗難にあったら、欲しい人にもらってもらえて結構だったなんてとても思えないなあ」と、よく夫婦で話していました。しかし、今回の妻の「誰かに喜んでもらいたい」との思いからとった行動は、たとえその域までには達していなくても、教祖はその心配りをきっとお喜びくださったことでしょう。それに比べて、文句ばかり言っている器の小さい自分が恥ずかしくなりました。

もう使う予定がないのなら、「誰かの役に立てば」と潔く差し出す妻と、持っていてもゴミにしかならないのに未練がましく持っている私。そっと4枚の抽選券を車のゴミ箱に捨て、件の教祖の逸話を伝えながら、「さっきはゴメンね」と謝りました。すると、「この4枚で私の4倍役に立ったかも知れないのにね」と、妻が少し意地悪な返答をしました。

ゴミ箱の中で、4枚の抽選券が寂しそうに頭をのぞかせていました。

 


 

病にこめられた神様の思い

 

人は皆、病気になどなりたくないと思って暮らしていますが、天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、次のように仰せくだされています。

 

  せかいぢうどこのものとハゆハんでな
  心のほこりみにさハりつく (五 9)

  みのうちのなやむ事をばしやんして
  神にもたれる心しやんせ (五 10)

 

病とは、心のほこりが身の障りとなって表れたものである。そのほこりについて反省し、神様にもたれる心になるよう思案をしてもらいたい。そうお諭しくだされています。

病とは、人間に思案のきっかけを与えるために神様がもたらすものであり、そこには、私たち一人ひとりに知らさなければならない神様の深い思わくが込められているのです。そういう見方ができないと、病気というものが単にネガティブに受け取るだけのものになってしまいます。

教祖をめぐって、こんな逸話が残されています。

ある信者が、長年の足の痛みをすっきりご守護を頂いたのですが、そのあと手のふるえが止まらなくなりました。それをたすけて頂こうと教祖のもとへうかがうと、教祖は、

「あんたは、足を救けて頂いたのやから、手の少しふるえるぐらいは、何も差し支えはしない。すっきり救けてもらうよりは、少しぐらい残っている方が、前生のいんねんもよく悟れるし、いつまでも忘れなくて、それが本当のたすかりやで。人、皆、すっきり救かる事ばかり願うが、真実救かる理が大事やで」とお諭しくださいました。(教祖伝逸話篇147「本当のたすかり」)

たとえ身体の十分な回復がかなわない場合でも、心一つで陽気ぐらしを味わうことができるのがこの教えです。表面的な病気を治すことだけが目的ではありません。

病というものがなければ、多くの人は本来の神様の思いを知る機会もなく、いつまでも陽気ぐらしの本質を知らないままです。神様の目的は、私たち人間の曇ってしまった心の姿を、病という〝影〟を通して知らせると共に、その先にある〝光〟としての神様のお働きに気づかせようとされるところにあるのです。

(終)

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