(天理教の時間)
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第1280回2024年5月3日配信

そこにある幸せ

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1241回

教祖のお下がり

教祖のお下がりの美容液を頂いた。一人でも多くの方に使って頂き、心もお肌も元気になってもらおうと考えた。

胸の奥にこの花あるかぎり

「歯を食いしばると…」

 

かかりつけの歯科医院から、半年ごとの定期検診の案内状が届いた。いつもは詰め物が外れたりしないかぎり、受診しないのだが、今回は素直に受けてみることにした。というのも、最近参加したイベントや研修会で、高齢者の「お口の健康」が繰り返し取り上げられており、その大切さを再認識したからである。

いま日本は、世界が経験したことのない超高齢社会を迎えようとしている。2025年には、戦後のベビーブーム生まれの「団塊の世代」が、75歳以上の後期高齢者となるからだ。

本来、長寿は喜ばしいことである。しかし、せっかく長生きしても、寝たきりや介護が必要な生活になってしまっては残念である。現在の日本では、男性で九年、女性で十二年の介護生活を余儀なくされるといわれる。元気で自立した生活ができる「健康寿命」の平均は、男性72歳、女性75歳。この健康寿命を延ばそうと、さまざまな介護予防の取り組みが始まっている。

その一つが「お口の健康」である。お口のトラブルを予防して、いつまでも「口から食べる幸せ」を味わってもらい、元気に過ごしてもらおうというものだ。

医師、歯科医師、歯科衛生士、摂食・嚥下障害看護認定看護師、栄養士など多職種のエキスパートがチームを組んで、各地で熱心に活動を展開している。

年を取ると唾液が減り、口のなかで細菌が繁殖してしまう。食べ物を飲み込む力も衰え、むせたりして肺炎の原因となる。また、虫歯や歯周病で物を噛めなくなると、必要な栄養が取れず、衰弱につながる。「お口の健康」は、全身の健康に大きくつながっている。

私は若いころは虫歯もなく、歯科医のお世話になることなく過ごしていた。四十代のある日、歯茎が腫れて痛みだし、歯科を受診。虫歯はなかったが、歯と歯茎の間をきれいにできていなかったので、歯周病が発生したのだった。初めてブラッシング指導を受け、それ以後は手入れを怠っていない。

今回の定期検診の結果、「よく磨けていますし、歯は大丈夫です。ただ、歯茎に負担がかかって赤くなっています。歯を食いしばる癖がありませんか?」と尋ねられた。

さらに、「しっかり噛むことは、栄養を取る助けになり、認知症の予防にもなるので大切です。でも通常、何もしていないとき、上の歯と下の歯は触れ合っていないものです。食いしばることによって、歯や歯を支える骨や筋肉に力がかかって、せっかく治療した詰め物が外れたり、歯の根元がすり減ったり、ぐらついたり、知覚過敏、肩こり、頭痛などを起こす恐れがあります。テレビを見ているときや、考えごとをするときなど、できるだけ歯を食いしばらないで、少し離すよう意識してみてください」と指導を受けた。

言われてみると、何かしているとき、知らぬ間に歯を食いしばっているのに気づく。これはある種の、〝生活習慣病〟だ。看護師の職業病かもしれない。ストレスの多い看護管理者が、よく歯茎を腫らして歯科を受診していたのを思い出す。

私たちの体は、人間の親なる神様からの借りものと教えられる。「体を使わせていただくに当たり、歯を食いしばって物事をすることを、神様はあまりお喜びにならないかもしれない」との思いに至る。

人が歯を食いしばるときは、苦しみ、痛み、つらさなどを耐え忍んでいるものだ。「陽気ぐらし」は、互い立て合いたすけ合いが基本。大変なときは一人で耐え忍ばず、もっと人に頼って助けてもらい、人がつらそうなときは助けてあげる。そうやって、互いに感謝しながら乗り越えていけばよいのだ。

 

「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」(『稿本天理教教祖伝逸話篇』123「人がめどか」)

天理教教祖「おやさま」のお声が聞こえてきそうである。

 

歯と歯の間を空けるようにしていると、ほんわかとやさしい気持ちになっているのに気づく。

「定期検診は、借りものの体を正しく使わせていただいているかのチェックにもなるのだなぁ」と思った。

 


 

教祖のお下がり

広島県在住  田口 智子

 

数年前のこと。天理教教祖「おやさま」にお供えされた美容液を頂くことがありました。金箔が散りばめられた色鮮やかな美容液。どうやって使わせて頂こうかと考え、たどり着いた答えは、一人でも多くの方に「教祖のお下がり」であることを伝えて使って頂き、心もお肌も元気になってもらいたいということでした。

そう思ったその日から、教会へ来られる信者さんや友人たちに、「教祖のお下がり」であることをお伝えしながら、一滴、二滴とつけて頂きました。

皆さんに同じことをお伝えしているはずなのに、受け取る人たちの反応は様々です。何度も何度も押し戴いてからつける方、「頭良くなるかなあ」と、笑いながら頭につける方、身体の痛む所につけて深々とお礼をする方など、同じ美容液なのに受け取り方は千差万別なのだなあと、あらためて思いました。

信仰している方だけでなく、未信者の友人にも教祖のお話をしながらつけてもらいました。中には「それなら病気の親につけてあげたい」と、ラップに一滴包んで大切に持って帰った友人もいました。後日、その友人は「お父さんの調子が良くなったんよ。ありがとう」と、お礼を言いにきてくれました。

何人か数えられないほど大勢の方に使って頂き、ビンの中身もいよいよ少なくなりました。あと一人か二人かな?と思っていた頃に真夏を迎え、「こどもおぢばがえり」が始まりました。

暑い日中、おぢばの神殿で参拝していると、ある友人と数年ぶりに再会しました。とても顔色が悪く、思い詰めた様な顔をしていたので訳を聞くと、「参加していた子が突然体調を崩し、いてもたってもいられないので、神殿にお願いをしに来た」と言います。

それも一度お願いしても良くならないので、一度宿舎に戻ってからまた神殿に来てお願いをし、また戻るを繰り返し、これで三度目の参拝を済ませたところだと言うのです。そこで私は友人にお下がりの美容液の話をして、「こうして神殿で会えたのも、『どうでもその子にたすかってもらいたい』というあなたの思いを、神様が受け取ってくださったからなのね。真実よね」と言って、美容液の入ったビンを振りました。本当に、最後の数滴でした。

友人はこれを手の平で受けると、「教祖、ありがとうございます」と深々と頭を下げ、反対の手でふたをして颯爽と宿舎へ帰って行きました。

振り返ってみると、私自身、一滴もつけない間に終わったひと瓶でしたが、このひと瓶が織りなす短い物語をいくつも見せて頂き、喜びを胸いっぱいに頂くことができました。

数年前亡くなったある信者さんは、いつも教祖を心に置いて日々を通っておられました。その方にお下がりを届けると、必ず押し戴いて「教祖ありがとうございます」と受け取り、みかんなどは勿体ないからと、外の皮まで小さくして頂いていました。

子どもの頃、祖母に「お下がりはな、受け取る側の心一つで、身につくものにもなるし、ただ同然のものにもなるんやで。お礼を申し上げて頂いたら、身の内に十分身につかせてもらえるんやで。忘れたらあかんで」と言われたことを今でも覚えています。

また、お下がりと言えば、十数年前のこんな出来事を思い出します。天理にいた私に、友人から電話がありました。

「今日、広島に帰るなら、今朝の教祖のお食事のお下がり、持って帰らない?」

その時私の頭の中に、重い病気を患っている地元の友人の顔が浮かびました。浮かんでくることには何かしら、神様の思いが込められていると信じている私は、帰る道中、新幹線を途中下車し、入院している友人の所に寄りました。友人は治療のためにしばらく食事がのどを通っていなかったそうですが、教祖のお下がりのおかゆと梅干を口に入れてみると、不思議とのどを通り、その日から少しずつ食べられるようになったと、後日聞かせてもらいました。

教祖をお慕いする信者さんの心を見落とさず、その心をつながせて頂くことの重要さをしみじみ感じています。これからも毎日心にアンテナを立て、人様のためにこの身体を使わせて頂きながら、心を磨いていきたいと思います。

(終)

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