(天理教の時間)
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第1280回2024年5月3日配信

そこにある幸せ

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1222回

探し物のキーホルダー

小二の娘がおぢばの商店街でお買い物。たまにあげるお小遣い、こんな時ぐらい自分の好きな物を買えばいいのに…。

探し物のキーホルダー

 岡山県在住  山﨑 石根

 

銀杏の紅葉がまぶしい、昨年11月半ばの日曜日のこと。教会の信者さんを、奈良県天理市にある天理教本部の神殿へお連れするために、ワゴン車での日帰りの便を用意しました。ちょうど席が一つだけ空いており、せっかくなので小学二年の末娘に声を掛けると、「行く!」と即答し、一緒に出掛けることになりました。

末娘を誘ったのには訳がありました。天理教の夏のビッグイベントとして、毎年「こどもおぢばがえり」という行事が開かれます。その名の通り子どもを対象とした行事で、天理に子どもたちが集まり、楽しい催し物に参加します。実に半世紀以上の歴史があり、私が子どもの頃にも、友達を誘って参加し、大勢で宿泊した楽しい思い出が残っています。

それから私も親になり、我が家の五人の子どもたちも、同じように幼い頃から欠かさず参加していたのですが、この三年間はコロナの影響で開催されませんでした。そんな事もあり、今回は特別な行事はありませんが、娘に天理での思い出を少しでも多く作ってもらいたいとの思いから、連れて行くことにしました。

子どもたちは、行事以外にも天理で楽しみにしていることがあります。それは商店街での買い物です。普段はほとんどお小遣いを与えていないのですが、天理へ行った時だけは自分で好きなものを選んで買うことができます。長男が小さい頃は、一年前から「来年は天理で大判焼きを買おう」と計画していたほどです。去年の夏、実に一年ぶりに子どもたちを連れて参拝した時も、それぞれが思い思いのものをじっくり選んで買っていました。

さて、天理に到着し、みんなで参拝をした後の自由時間。いよいよ待ちに待った商店街での買い物です。娘は私からもらった500円玉を握りしめ、お土産屋さんやおもちゃ屋さんを一軒々々じっくり見て回ります。

でも、何だか様子が変です。「違うなあ」とつぶやきながら歩いている彼女は、好きな物を選んでいるというより、何かを探しているようなのです。商店街を半分進んだところで、また引き返してさっきと同じお店をもう一度見て回っています。

「このお店には似てるのがあるんじゃけどなあ…」と言うので、「何か探してるの?」と尋ねると、キーホルダーを指差しながら、「下がもっとこう、透明の四角で、上のクローバーは緑色なんよ」と、彼女なりに説明してくれるのですが、私はちんぷんかんぷんです。

すると、お店の奥さんが、「あら、お嬢ちゃん、よく覚えてるねえ。あった、あった、確かにそんなデザインのキーホルダーがあったねえ」と、一緒に探し始めてくれたのです。しかし、やはり見つからず、私は他のものを勧めたのですが、彼女はどうしても自分のお目当ての物を買いたいようです。「一体、何のキーホルダーなん?」と少し呆れ気味に尋ねると、「みーちゃんのやつ」と、ボソッと答えました。

その時、私は一瞬にして夏の出来事を思い出しました。みーちゃんとは中学生になる我が家の次男のことです。先の通り、去年の7月にも、子どもたちとこの商店街で買い物をしました。その時に次男が買ったキーホルダーが、彼女はどうしても欲しいのです。

実は、その次男のキーホルダーを、買ったその日の夜に彼女が壊してしまったのです。決してわざとではないのですが、「弁償せえ!」と怒る次男に、「大事にしまってないあんたも悪いんや。もう中学生なんやから我慢しい!」と親が叱るという、よくありそうな恥ずかしい親子喧嘩となったのでした。

もうあれから四か月も経っています。親の私も当の次男も忘れてしまっている出来事なのに、彼女はずっと気にしていたのでしょう。そして、久しぶりに天理の商店街を訪れた彼女は、せっかくもらった自分のお小遣いを小さな手に握りしめ、壊してしまったキーホルダーをお兄ちゃんに買って帰ろうと、必死になって探していたのです。

「もう~、泣かせるやんか~!!」

人目もはばからず大声を上げた私は、目頭を熱くしながら、思わずその場で娘を抱きしめてしまいました。

「あんなに前のこと、もういいやんか。自分の好きなもの買ったらいいねんで。これ350円もするんで、ほとんど余らんよ」と泣き顔の私が説得しても、「私は欲しいもん無いけえ」と、また泣かせるようなことを言います。結局、お店の奥さんにも相談しながら、彼女は一番似ているキーホルダーを買いました。私は父親として、何だか誇らしい、あたたかい気持ちになりました。

親が子どものためにと思って与えたものを、子どもが自分以外の人のためを思って使う。親としてこんなに嬉しいことはありません。親バカでしょうか? いいえ、親とはそういうものだと思うのです。終いには、「今回は特別やで」と言って、娘にもう少しお小遣いをサービスしてしまうという親バカぶりを発揮し、幕を閉じたのでした。

天理教では、神様のことを、人間を創り育てられた親なる神様であることから、親神様とお呼びして、敬い親しんでいます。

たった350円でも、誰かのために使おうとしている我が子の様子にこんなにも感激するのですから、親神様もきっと同じだと思うのです。私たちが日ごろ、誰かのためにと心や身体を使った時、それがどんなに些細なことであっても、きっと親なる神様は手を叩いてお喜びになり、そして結局は大サービスをして下さるのではないかと、そんなことを思いました。

帰宅して、得意気にお兄ちゃんにキーホルダーを渡す娘の隣りで、同じように得意気になっている自分にはたと気がつき、あらためて「親バカだなあ」と、私は何だか恥ずかしくなったのでした。

 


 

欲が混じりてある

 

天理教教祖・中山みき様「おやさま」が教えられた「みかぐらうた」に、

  みれバせかいのこゝろにハ
  よくがまじりてあるほどに(九下り目 三ッ)

  よくがあるならやめてくれ
  かみのうけとりでけんから(九下り目 四ッ

とあります。

人々の心に欲が混じった状態では、せっかく神様におたすけを願い出ても、神様としてはそれをお受け取りになることができないと、あらかじめご注意くださっています。

問題は、人々の心に欲が「混じりてある」ということでしょう。完全に欲だらけの心であれば、誰もがすぐに分かるわけですが、多少混じっている状態では、本人も周りもそれが欲であるとなかなか気づきにくい場合があるのです。

教祖がお歌と共に教えられた手振りでは、「まじりて」の手は、物をはさんでいるような心持ちで、両手の指を軽く曲げて合掌の型をすると教えられています。それはまるで、外からは何が入っているのか分からない様子を表しているようにも悟れます。

では、心に欲が「混じっている」とは、具体的にどういうことなのでしょうか。こんな逸話が残されています。

ある信者さんから、お餅のお供がありました。そのお餅を教祖にお出ししたところ、教祖が箸を持ってそれを召し上がろうとなさると、箸が激しく跳び上がって、どうしても召し上がることが出来ません。あとから聞くと、実はこのお餅をお供えする時、その家では「二升にして置け」「いや、三升にしよう」という言い争いがあったのちに、「惜しいけど、上げよう」と言って持ってきたお餅だったのです。(教祖伝逸話篇180「惜しみの餅」)

教祖にとっては、みな世界の胸の内は鏡のごとくに映っているのですから、人々の心に欲が混じっているかどうかは一目瞭然です。

教祖は、こんなお言葉を残されています。

「心の澄んだ人の言う事は、聞こゆれども、心の澄まぬ人の言う事は、聞こえぬ」(教祖伝逸話篇176「心の澄んだ人」)

と。

(終)

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