(天理教の時間)
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第1279回2024年4月26日配信

欲しい愛情のかたち

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1195回

「身上とは何か」ひたすら考え、すごい何かが見えた件(『日々陽気ぐらし』より)

身上をご守護いただくとは、どういうことか。若い頃は、病気がすっきり治ることだと思っていたのだが…。

「身上とは何か」ひたすら考え、すごい何かが見えた件

古川 真由美

身上をご守護いただくとは、どういうことだろう。

かつて私は天理教教会本部の勤務者として勤め、その21年間のほとんどを婦人科系の身上とともに過ごした。最初に手術を勧められたのは40歳を過ぎたころ。そのときはすぐに決断できず、自分にとってどうすることがベストなのか、ひたすら考え続けた。

あるとき、以前に読んで印象に残っていた、福島智 東京大学教授による『天理時報』の連載エッセー「生きるって人とつながることだ」の一節が、ふと頭に浮かんだ。

「福島よ、目が見えんってどういうことや」

全盲の盲学校教師が、全盲の中学生だった福島少年に投げかけた言葉だ。

この後、福島教授は18歳で全盲ろうの状態になるのだが、ご自身が盲ろう者になることによって、「人生において真に価値あるものは何か」を問い続けるチャンスが与えられたことは、意味のあることだったと述懐されている。

病気とは、いったい何だろう。

私は二十代、三十代のころ、病気がすっきり治り、結婚して子宝に恵まれることが、私にとってのご守護だと信じて疑わず、ずっとそう願っていた。だが、その願いは、いつのころからか「身上とは何か」「ご守護とは何か」という問いに変わる。「ご守護いただきたい」と願うばかりでは、その本質にたどり着くことはできないということに、当時の私は気づき始めていたのであろう。

結局、手術を受けたことにより、私の「病気」は治った。しかし、最初に手術を勧められてから決心するまでに二年ほどかかっている。

何かを変えるためには、何かを捨てなければならない。わが身思案やわが身の都合をすべて捨て、親神様にもたれて通る覚悟を決めることができたとき、「身上とは何か」が少し分かった気がした。

「ご守護とは何か」ということを考えるなかで、大きな影響を受けた人物がほかにもいる。

その人は、アテネ、北京、ロンドンのパラリンピック女子走り幅跳びの日本代表選手で、大学在学中に骨肉腫を発症、右足の膝から下を切断した経歴を持つ。

そんな彼女が、2013年、東京五輪招致委員会プレゼンターとして、IOC総会の最終プレゼンでスピーチを行った。そのニュースをたまたまテレビで見ていた私は、かつて経験したことがないくらい強い衝撃を受けた。そしてそれはすぐに、とてつもなく大きな感動へと変わっていった。

彼女は術後、一度は絶望の淵に沈むが、大学へ戻って陸上に取り組むようになり、変わる。

「目標を決め、それを越えることに喜びを感じ、新しい自信が生まれました。そして何より、私にとって大切なのは、私が持っているものであって、私が失ったものではないということを学びました」

これは、言い方を変えると、私たちはいま自分に必要なものはすべて持っている、ということになるのではないか。

彼女の言葉を聞いて、いったい何枚のウロコが目から剥がれ落ちただろう。私にはそんな発想、全くなかった。きっとこれが、親神様が身上を通して私に何より教えたかったことだ、と確信した瞬間だった。「病気が治る」ということは、もちろん大事なことではあるが、ご守護の一つの側面に過ぎない。

昔、信仰の道は、ある意味「捨て方」を学ぶ道のようなものだな、と思ったことがある。私は信仰初代なので、信仰を始めて間もないころ、教えに関しては全く分からないことばかりで、とにかく知識を増やすことだけに躍起になっていた。「捨てる」ことの意味なんて、考えたこともなかった。

だが、「ご守護とは何か」を考える長い日々を過ごしていくうちに、生きるとは捨てることの連続ではないかと思うようになった。

私は身上を通して、私に必要なものは、親神様がすべてお与えくださっていることを知った。

自分のなかの捨てるものは何で、捨てないものは何なのか。時には間違えたり、失敗したりすることもあるだろう。でも心配はいらない。失敗上等。また一から始めればいいだけだ。

まだ私には、人生において真に価値あるものが何か分からない。きっと一生、その答えを追い続けていくのだろう。たぶん、それが人生だ。

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