第1191回2022年8月13日・14日放送
カルガモ親子の救出
母ガモが、はぐれたひな鳥たちを探して必死に鳴いている。騒ぎを聞きつけ、近所の人たちが集まってきた。
カルガモ親子の救出
京都府在住 辻 治美
先日、自転車に乗ってスーパーに向かっていたら、「ガー!ガー!」という鳴き声とともに、目を疑うような光景に出くわしました。京都の街中の細い通りで、一匹のカルガモが塀に向かって必死に鳴いています。
「なんでー!?」と、心の声が思わず漏れてしまいました。
近くに川もない、都会のど真ん中です。一体どこから来たのか。なぜこんなに必死になって鳴いているのか。時間に余裕はなかったのですが、放っておけなくて様子を観察していると、塀の中から「ピーッ、ピーッ」と、何匹ものひな鳥のか細い声が聞こえてきました。これはカルガモの親子が離れ離れになっていて、たすけを求めているに違いない!と状況が分かってきました。
この塀の中は、廃校になった古い小学校の校舎です。今はときどき地域の催し物が行われるだけですが、校舎の裏に小さな池があり、どうやらそこにカルガモ親子はいたようです。きっと、巣立ちとなり移動する時に離れ離れになったのでしょう。
塀には大きな鉄の扉があり、鍵がかかっています。その扉を開ければ親子が再会できる!と考えた私は、すぐうちに帰り主人に事情を説明しました。主人は地域で様々な役を務めていることもあって、その扉の鍵を預かっていたのです。
「お父さん大変や!そこの通りでカルガモがガーガー鳴いてて、ひな鳥が中にいてたすけを求めてるから、学校の扉の鍵開けてあげてほしいねん」
必死に説明するのですが、主人はあまり理解していない表情で、「なんて?どうゆうこと?」と言いながら、ともかく学校の鍵を持って二人でカルガモの所へ走りました。
通りがかりの人が数人、心配そうにカルガモの様子を見ています。「こんな所にいたら車にひかれるで」「一体どこから来たんやろ?」皆さん、私同様放っておけなくて、その場から動けない様子でした。
そして、主人が鍵を使って扉を開けると、中からたくさんの小さなひな鳥が「ピーッピーッ」と鳴きながら流れるように出てきました。まるで「おかあちゃーん!」と叫んでいるようです。
カルガモの親子は無事再会を果たし、ぴったり寄り添っています。一緒に見守っていたご近所さんと「良かったねー」「かわいいなあ」と喜んでいると、母ガモがまたもやガーガー鳴き始めました。するとどこか別の方向から、ピーッピーッと鳴き声が聞こえてきます。
主人が扉を開けた時に、一羽だけ違う方向へ逃げて行くのを見たらしく、校舎の周りを探すと、ひな鳥が一羽、校舎の地下に降りていました。母ガモはそれに気づいて鳴いていたのです。
近くの動物病院の方が、ケージと呼ばれる大きな籠と網を持って駆けつけ、母ガモと九羽のひな鳥は無事保護されました。しかし、残る一羽を探して母ガモは鳴き続けています。
主人と網を持った病院スタッフの方が日の届かない暗い地下に降り、ひな鳥を探しています。騒ぎを知った近所の方も次第に増え、「大丈夫やで。今ちびちゃんをたすけに行ってくれてるからね」と、母ガモとひな鳥たちに話しかけ、皆祈るように救出劇を見守っていました。
するとしばらくして、「捕まえた!」という主人の声が聞こえてきて、大きな拍手が沸き起こりました。母ガモは、そんな私たちの喜ぶ様子を感じたのか、落ち着きを取り戻し、鳴くのをやめました。
一羽も欠けることなく再会を果たしたカルガモ親子を、動物病院の方が車に乗せて近くの川に放しに行って下さることになり、その場に居合わせた方々と一緒に見送りました。
皆さんマスクをしていますが、その下で幸せそうな表情を浮かべているのが分かります。「可愛かったねー」「ひな鳥無事で良かったねー」。初めて会った人同士なのに、まるで昔からの友人のように、カルガモ親子がたすかったことを喜び合いました。
近所に、こんなにも心優しい人たちがいるんだ…と、嬉しくてたまりませんでした。皆さんきっと、人間の母親が我が子を思う気持ちと変わらない母ガモの愛情の強さと、ひな鳥が親を求める小さな命の声に胸を打たれ、何とかたすかって欲しいとの思いで見守っていたのだと思います。大勢の人たちと一緒に、人の心の温かさと命の重みを感じることができた、素晴らしい一日でした。
いま私たちは、マスクで顔の表情が分かりにくくなっている上に、会話をすることにも気を使って、お互いの考えや感情が伝わりにくくなっているように思います。そんな中でも、心の中にはたすけ合いの精神が脈打っていて、いざ困難に遭遇している場面や人に出会うと、その心が動き出し、行いとなって表に現れてくるのだと感じました。
世界では、自分たちさえ良ければ他はどうなってもいい、という勝手な考え方が広がっているように思います。カルガモの親子は、通りがかりの人たちの、自分さえ良ければという心とは真逆の「放っておけない」という、一人ひとりの優しいたすけ合いの心によって命を救われました。
世界が様々な困難に直面している今でも、一人ひとりの優しい心、たすけ合いの心が世界の運命を変えるかもしれないと真剣に考え、行動している人がたくさんおられます。
「そんなん、一人の行動ぐらいで変わるわけないわ」と笑う方もおられるかもしれません。しかし、その小さなうねりが大きなうねりとなって、世界に影響を与えることもあるかもしれないのです。
身近に困難を抱えている人はいないでしょうか? 家族、友人、隣人に困っている人はいませんか? もしかするとすぐそばで、カルガモの母親のようにたすけを求めている人がいるかもしれません。
自分の心の中にある、またみんなの心の中にあるたすけ合いの精神を信じて、まずは身近な人のSOSに耳を傾けることから始めたいと思います。
共に喜び、共に楽しむ
私たちが個々に幸せを求めるのは、ごく自然なことです。しかし、その幸せが、周囲の人々や環境の犠牲の上に成り立っている場合が往々にして見られます。
たとえば、豊かな暮らしを求めるがゆえの新たな開発によって、自然環境が犠牲になることがあります。そこには、経済的に恩恵を受ける人たちがいる一方で、森林伐採や川の汚染などで見境なく土地が荒らされ、それによって大勢の人たちが影響を受けます。そして、そのような施策が、地球温暖化となって世界全体に跳ね返ってくるという事態を招くのです。
天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、
めへ/\にいまさいよくばよき事と
をもふ心ハみなちがうでな(「おふでさき」三 33)
と、いま目の前の出来事に固執して、将来を見通せない私たち人間の心遣いを戒めておられます。
地球環境を考える上では、先を見据える視点を忘れることなく、また、「慎みが世界第一の理」(「おさしづ」M25・1・14)とのお言葉の通り、欲におぼれず、慎みを持ちながら生活したいものです。
現代社会では、政治や経済をはじめ、さまざまな局面で力のある者が優位に立つということが多々あります。しかし、優位に立つ者だけが恵まれるような、他者の犠牲の上に成り立つ幸せは、神様の望まれる真の陽気ぐらしとはほど遠いと言えるでしょう。
お言葉に、
「神が連れて通る陽気と、めん/\勝手の陽気とある。勝手の陽気は通るに通れん。陽気というは、皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん」(「おさしづ」M30・12・11)
「勝手というものは、めん/\にとってはよいものなれど、皆の中にとっては治まる理にならん」(「おさしづ」M33・11・20)
とあります。
自分たちだけが楽しんで、他の人たちはどうなっても構わないという態度であってはならないということです。陽気ぐらし世界は、相手の立場や考え方にも心を寄せ、共に喜び、共に楽しむという心豊かな姿勢のうちに育まれていくのではないでしょうか。
(終)