(天理教の時間)
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第1275回2024年3月29日配信

年末に続いた子供の風邪

岡先生(掲載)
岡 定紀

文:岡 定紀

第1172回

忘れられたフィルム

現像されずに眠っていた古いフィルム。そこには、私が子育てで心を病んでしまった頃の家族の姿が。

忘れられたフィルム

 奈良県在住  坂口 優子

 

次女の小学校入学に向け、この冬、重い腰を上げて、思い切って部屋の片づけをしました。押し入れの中は、お嫁に来る時に持ってきた物や、子どもたちの幼少期の物など、捨てられずにいた物でいっぱいだったのです。

すると、手伝ってくれていた主人が、何やら奥から出してきたくしゃくしゃになった紙袋をのぞいています。

「あぁ!アパートで暮らしていた時のやね」。袋の中身は、現像に出されないままだった四本のインスタントカメラでした。押し入れの奥ですっかり忘れられていたのです。

「現像出してみる?」と私がたずねると、「せやなあ。なんの写真か分からんけどな」と笑う主人。どんな写真が出てくるのかドキドキしながら、早速現像に出してみました。

数日後、百枚ほどの写真ができ上がってきました。家まで待ちきれず、スーパーのベンチに二人で座り、袋を開けました。「わあ!見てー!」そこに写っているのは、私たち夫婦の若々しい姿や、上三人の子どもたちの可愛い盛りの姿。思えば、二十年の結婚生活で一番大変だった頃の写真でした。

私は大学三回生の時に結婚しました。長男が生まれた時にはまだ学生で、学業に加えて初めての結婚生活、初めての教会生活、次々に授かった年子三人の育児と、できないなりに頑張ってはいたものの、25歳のある日の朝、起き上がると、雲の上をぷかぷかと浮いているように足元がふらついてしまったのです。

天理教では、私たちの身体は、神様からの「かりもの」であると教えられます。心だけが自分のものであり、神様はその心通りに身の周りのすべてをご守護くださるのです。

当時の私は、その教えを聞いてはいたものの、それがどういうことなのか全く分かっていませんでした。ただ、自分の心だけで元気に身体を動かせると勘違いしていたのです。

できる、できる!と思えば思うほど身体は動かなくなり、最初は足元がふらつくだけだったのが、とうとう身体を起こすことさえできない状態になってしまったのです。

病院で検査の結果、身体に異常はなく、心療内科でうつ病と診断されました。身体が思うように動かず、何もできなくなってしまった自分への失望が大きかったのかも知れません。

これをきっかけに、私たち夫婦は天理教修養科を志願。幼い子どもたちと共におぢばで三カ月を過ごし、その後は教会の近くにアパートを借りて八年間生活しました。

当時の私は、自分以外の人のことを全く考えることができなくなっていました。母が私を育ててくれたのと同じように、我が子たちにもしてあげたい。やる気は十分あるのに身体に力が入らず、起き上がることすらできない。周りの目も気になり、ただただ自分を責め続ける日々。

こんなはずじゃないのに…。「今日も何もできなかった」と泣いて話すと、「今日も生きてたでええやんか。息ができたでええやん」と、できなかったこと探ししかできない私に、できたこと探しをしてくれる主人。そして、私の隣りで大人しくしている子どもたちに、「今日も三人仲良くお留守番してくれて、えらかったな。ありがとう」と優しく声を掛けてくれるのでした。

できなかったこと探しが得意だった私の子育てを振り返れば、してあげられなかったことの記憶しかなく、子どもたちには今までずっと、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

現像された写真は、ちょうどその頃の、いちばん大変だった時期のものでした。「かわいいなあ」。目を潤ませながら二人で写真を見つめました。写真の中の子どもたちはとても楽しそうで、それまで抱えていた私の苦しみを和らげてくれました。

「現像するお金もなかったんやもんな」と懐かしむ主人。「そうやね。だからずっと押し入れの奥で眠ったままやったんやね」と私。お金がなくても、こうして子どもたちの思い出を残してあげたいという精いっぱいの気持ちを確認できたこと、そして何より、二十年間どんな日も心を倒さずにいてくれた主人のおかげで、こんなこともあんなこともできたんだなあと、あらためて感謝の思いが湧いてきました。

小さかった子どもたちの成長が、私の心にたくさんの喜びを注いでくれて、心は自然に元気の方向へ導かれ、身体も少しずつ動けるようになり、再び教会生活へと戻れるようになっていったのでした。

すべての写真を見終わると、主人が言いました。

「俺らの一番いい頃の写真やな。この写真、現像できたのがこのタイミングやったからこそ良かったんや。このタイミングやなかったら、子どもたちは『何もったいないことしとんねん!』って俺に怒られてたで」。

中には、幼い子どもたちがイタズラで撮影したアパートの写真もたくさんあったのです。

いたずらでなければ絶対に残ることのなかった写真。だけど、今の私たちにとっては、それだけで何時間も語ることのできる写真。主人からは、もっと深い話が聞けると期待していたのに、不意をつかれて大笑い。けれど、この部屋の思い出は、私たち夫婦にとって、全部忘れてはいけない「宝物」。

 


 

人は死んだらどうなるの?

 

四歳の娘さんに、「人は死んだらどうなるの?」と突然聞かれ、困ってしまった主婦のAさん。普段聞いている天理教の教えをもとに、「人はねえ、またこの世に生まれかわってくるのよ」と答えたのですが、理解してもらえるかどうか不安だと言います。

天理教では、人の死を「出直し」と言います。この言葉は人生の終わりを意味するとともに、またこの世に生まれかわってくるという意味も含んでいます。いずれ、ちょうどいい時期に、縁のあるところに赤ちゃんとなって再び帰ってくる。ですから死は、次の新しい人生につながる中継地点でもあるわけです。

人の出直しについて、教祖・中山みき様「おやさま」は、古い着物を脱いで、新しい着物と着がえるようなものだと教えてくださいました。

まだ生まれて数年しか経っていない子どもにとって、死は遠い先の話だろうと大人は思いがちです。しかし、子どもだからと適当にごまかすのではなく、真剣に応えることが大切ではないでしょうか。ひょっとしたら、生まれかわってきて間もない子どもにとって、「死」は、大人が思う以上に身近なことなのかも知れません。丁寧に説明するとともに、もし死に対して不安や恐怖を感じているなら、それを取り除けるようにしてあげたいものです。

お言葉に、

「親が子となり、子が親となり」(「おさしづ」M34・923)

とあるように、私たちはこの世に何度も生まれかわっては、お互い立場が変わっても、また縁のある人たちと出会って人生を歩んでいくのです。

もちろん、誰が誰の生まれかわりだ、などということは、私たちの理解の及ばぬところです。

お言葉に、

「後々誰の生まれ更わり言えば世界大変。誰がどう、彼がどう、とは言わん」(「おさしづ」M31429)

とあるように、生まれかわりが分かるということには、いい面ばかりではなく、あの人は前生で私たちの家族にひどいことをした、なんていうマイナスの面も分かってしまうわけですから、そこは神様が見えないようにしてくださっているのです。

目の前にいるのは、前生か、もしくはそれ以前に自分がお世話になった恩人かもしれない…。そう考えると、我が子に対してだけではなく、周囲でめぐり会うどんな人々にも、親切にしたり、喜んでお世話をすることが大切だと思えてきます。

出直しとは、陽気ぐらしに向かう再出発であり、実に明るく前向きな教えです。私たちは、生まれかわりを繰り返しながら、一歩一歩、陽気ぐらしへと近づいている。そう信じながら、いま生かされている日々を、全うしたいものです。

(終)

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