(ラジオ天理教の時間)
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第1180回2022年5月28日・29日放送

安心感は足元にある

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1155回

人生のハーフタイム

重い障害のある息子をたすけていただくために修養科を志願。運命を切り替えるためにおぢばで過ごした三カ月。

人生のハーフタイム

京都府在住  辻 治美

 

私は平成25年の6月から8月の真夏の3カ月間、心を磨き、心の使い方を学ぶために天理教修養科に入った。それは、生まれてすぐ、てんかんの発作で重い障害を持った息子の笑顔が見たかったからである。

四人きょうだいの末っ子の息子は、生まれてからすぐにてんかんの発作が起きて入院となり、私も付き添いとして長期の入院生活を送ることになった。一時間おきに起こる発作。それは昼夜関係なく始まり、数分間エビぞりのような状態が続く。息子は自分の意思とは全く違う激しい身体の動きに驚き、苦しそうに泣いた。

発作の後は疲れ切って、声をかけてもあやしても全く視線が合わず、表情も乏しくぐったりしていた。可哀そうでたまらなかった。

息子の発作が治まるにはどうしたらいいのか。お医者様が最善を尽くして下さり、医学的な治療を受けてはいるが、私にできることは何かを考え続けた。そして出た答えが、神様が人間を造られたおぢばの地に息子と一緒に行き、修養科で学ぶということだった。

私は嫁ぐまで天理で過ごしていたので、病気の方が修養科の3カ月で元気になって帰って行く姿を見て育った。自力で歩けずに車椅子だった人が歩けるようになったり、うつ病の人が笑顔を取り戻したり、たった3カ月で生まれ変わったかのような人たちの姿を見てきたので、おぢばに行けば息子は必ずたすかると思った。

苦しい発作が治まって、息子が笑顔で過ごせるように、この子と修養科に入って、心の使い方を一から学ばせてもらいます、と神様に誓った。「一生、病院で過ごすことになるかもしれない」と、お医者様から言われていたほどの重度のてんかんである。実現するには程遠い状況にも関わらず、いつか必ず実現すると信じて、私は自分のできることを行動に移した。

子どもの15歳までの病気やトラブルは、親の心使いと行いによって良くして頂けると教えられているので、病院で同室の人たちの回復を必死に祈った。また、陰で徳を積む行いをさせてもらおうと、病院の洗面所やお風呂場を綺麗にした。自分にできることがある喜びを感じながら、実践し続けた。次第に、あれほどひどかった発作が徐々に治まり始め、退院して家で過ごせるようになった。

その後も発作が完全に止まることはなく、入退院を繰り返したが、家で過ごす時間が増えて、訓練を受ける療育施設に通えるまで元気になった。いよいよ神様にお誓いした、おぢばの修養科に行くという夢を実現できるほど体調が落ち着いてきた。心を定めた日から二年が過ぎ、息子は二歳になっていた。

そして平成25年6月、家族の理解と協力のおかげで、おぢばでの生活を始めることになった。上の中学生二人は主人と家に残り、小学三年生の息子は天理小学校に3カ月だけ転校するという形で、私と二歳の息子と一緒に天理で過ごした。

この時私は、自分が天理小学校に通っていた幼い頃を思い出した。3カ月だけ転校してきて、天理を去っていく友達がたくさんいたが、今思えばその子たちの親がたすかりを求め、大きな覚悟をもって修養科に来ていたのだ。その状況が心から理解できた。

二歳の息子は昼間、私が修養科で授業を受けている間は託児所で預かって頂いた。看護師さんが常駐し、天理よろづ相談所という立派な病院の小児科医とも連携しているので、息子の障害について事前に相談することができ、安心して預けることができた。

宿舎では、同じように人生の学びを求めて天理に来られた人たちと寝食を共にした。皆さん子どもたちを可愛がってくださり、毎日息子のために祈ってくださった。不安な時も温かく支えてくれて、家族と一緒にいるような安心感を得ることができた。

真夏の暑さの中での生活は楽ではなかったが、私の心に積もったほこりは少しずつ払われていき、反対にスポンジが水を吸うように、心は喜びで満たされていった。修養科には病気や問題を抱えている人以外にも、結婚を前に心を磨きたいという若い女性や、就職を前にした青年、仕事をリタイアした人など様々な人がいる。ひと言で言えば、人生のターニングポイントに立っている人たちだ。

ある日の朝礼で、修養科の主任先生が、天理でさかんなラグビーに例えてこんなお話をされた。

「ラグビーでは、前半と後半の間にハーフタイムがあります。ハーフタイムはとても大事なもので、前半は劣勢でも、休憩をとり気持ちを切り替えると、後半は流れが変わり逆転できることもあります。

この修養科は人生のハーフタイムです。神様が人間を造られたこの場所で一旦休憩し、今までの人生を見つめ直し、心の向きを切り替える。これからの人生を幸せに進むための大切な時間です」

3カ月のハーフタイムと言えば長いように感じるが、人生の中ではわずかな時間だ。その中で自分自身の心を見つめるうちに、幸せになるための心の使い方が身につき、運命の向きが変わっていく。修養科とは、そのような場所だと思う。

3カ月後、息子はおぢばで三歳になった。視線が合わず、笑顔の少なかった息子は、病の平癒を願う「おさづけ」を取り次ぐたびに、声を出して笑うようになった。その姿を見た時、あふれる涙を抑えることができなかった。願った以上の息子の姿に、家族や病院の先生、託児所の先生はとても驚き喜んでくれた。

息子だけでなく、共に3カ月を過ごした仲間それぞれが、幸せになるための心を身に付けて、笑顔で巣立っていった。運命を切り替える修養科という場所があり、本当にありがたかったと、今なお夏になると感激がよみがえる。

心の向きで運命は変えることができると信じ、一人でも多くの方に、この感激と修養科の素晴らしさを伝えたいと思う。

 


 

水の中の泥

 

天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、陽気ぐらしへ向かう道筋として、私たちの普段の心づかいが肝心であると、折にふれてお諭しくださいました。しかし、目に見えない「人の心」については、普段あまり意識する習慣のない人にとっては、なかなか分かりにくいものです。

教祖が教えられた「みかぐらうた」に、

  みづのなかなるこのどろう
  はやくいだしてもらひたい(十下り目 3 )

とあります。

ここで教祖は、「水と泥」のたとえを用いて、人の心について優しくお諭しくだされています。このお歌とともに教えられた手振りでは、「どろう(泥)」は、右手の指先でみぞおちを三回、小さくかきまわす動作をします。これは、泥が入っている水をかき混ぜると、たちまち水が濁ってしまうさまを表していると思案できます。

つまり、私たちがこの手振りのように、何か自分の心をかき乱される出来事が起こった時、心に泥のようなものが溜まっていれば、一瞬のうちに心を濁してしまうということです。

たとえば、夫婦の間でも、相手の何気ないひと言がきっかけで、突然に夫婦げんかが始まることがあります。それまでにお互いの言動にイライラすることがあったり、あるいは別の人との間で腹の立つことがあったりして、自分の心の中にストレスや鬱憤をため込んでしまっていることで、いわば心に火がつきやすい素地が出来上がっているのです。

そのようなストレスや鬱憤を「心の泥」にたとえ、それが心の底に溜まっていると、ちょっとしたきっかけで心がかき乱され、腹立ちや恨み心いっぱいの「濁った心」になってしまうことを、お諭しくださいます。

日々の生活の中で、周りの人から心ないことを言われたり、自分の思惑とは違う行動をされて戸惑ったりすることは必ずあります。泥水をきれいにするには、少し時間をおいて、泥が水の底に溜まってから泥をすくい出します。それと同じように、私たちも何か心に引っ掛かりが起きた時には、まず心を落ち着かせて、普段の心づかいをゆっくり振り返ることを大切にしたいものです。

教祖は、次のようにお諭しくだされています。

「人の言う事を腹を立てる処では、腹の立てるのは心の澄み切りたとは言わん。心澄み切りたらば、人が何事言うても腹が立たぬ。それが心の澄んだんや。今までに教えたるは腹の立たぬよう、何も心に掛けぬよう、心澄み切る教やで。」(「おさしづ」M20・3・22)

(終)

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