(天理教の時間)
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第1279回2024年4月26日配信

欲しい愛情のかたち

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1139回

ホントの自分

家では怒られてばかりの五人の子どもたちが、学校の懇談会では揃って先生に褒められた。どこか釈然としないが…。

ホントの自分

岡山県在住  山﨑 石根

 

心に余裕がない時、イライラしている時など、どうしても人の悪いところばかりが目につきます。いや、もしかすると人は元々、問題点を見つけることのほうが得意なのかもしれません。進化したり、成長したり、物事を良い方向に向かわせる上で、問題点を改善することが必要になってくるからです。

子どもを叱っている時、それは親として何とか良い方向に導きたいと思うからこそなのですが、無駄にガミガミ言っている自分に気がつき、はたと我に返って「またやってしまった」と反省するばかりの毎日です。

我が家には中学生の長男をはじめ、5人の子どもたちがいますが、夫婦でてんやわんやになりながら、余裕がなくて何かと怒ってばかりです。

例えば、あえて悪いところに注目すると…。長男と二男は思春期で、弟や妹たちに何かと意地悪ばかり。長女は困ったらいつでも泣ける大女優、何事も絶対にゆずりません。三男と末っ子の二女も、ちっとも言うことを聞かず、いつも誰かが泣いています。

そんな彼らの学校で保護者の懇談会があり、妻が一緒に行こうと誘ってきたのです。昨年の夏休み前でしたが、コロナの影響で在宅が多かったおかげで、私は初めて懇談会に参加できました。

するときょうだい全員が、先生からとても褒められたのです。もちろん、子どものことを褒められて、親としてこんなに嬉しいことはないのですが、私たち夫婦は普段怒ってばかりいるせいで、どこか釈然としません。

確かに長男は、勉強でも部活でも努力しているので、学習面をある程度は評価されてもいいと思います。しかし、反抗期の典型のような二男のことを、「こんなに思いやりのあるやさしい子はなかなかいませんよ」と先生は仰るのです。びっくり仰天です。

長女に対しては、「こんなに友達想いのやさしい子に育ててくださって、ありがとうございます」と、先生からお礼を言われるほど。三男も同じように「友達想い」と言われましたが、極めつきは、こども園に通う五歳の末娘でした。

先生からよく注意されるいたずらっ子の男の子に、「そういうつもりじゃなかったんじゃなあ」「本当はこうしたかったんじゃなあ」と、その子が叱られた後でフォローをするというのです。

これには私たち夫婦も参りました。そして、あらためて思ったのです。きちんと育てなければいけないと思い、つい出来ていないところばかりに注目してしまっていたけれど、あの子たちは学校でめちゃくちゃ頑張っていたんだなあ…と。

その日の夜は、緊急の家族会議です。
「はい、みんな集合!」と、円になって懇談会の報告をしました。
「先生が、こんなに思いやりのあるやさしい子はなかなかいませんよ、って褒めてくれたよ」

「はぁ?」「誰が~?」「うそじゃろ~!」「ありえん!」
もうどのケースも総ツッコミで、みんな大爆笑でした。そして、私は次のような話をしたのです。

我が家の最寄り駅である久世(くせ)駅には、駅前に石碑があり、ある川柳が刻まれています。

 「ぬぎすてて うちが一番よいという」

岸本水府(きしもと・すいふ)さんという大正・昭和初期に活躍した有名な川柳作家が詠ったものだそうです。

例えば、よそ行きの格好で親しい仲間と旅行したり、ビシッと身なりを整えて、どこか素敵な場所での会食に参加したりするのは、とても楽しいことでしょう。でも、帰宅してそれらをすべて脱ぎ捨てた時に、結局うちが一番安らぐなあ、くつろげるなあ、と、そうなってしまう点を面白く詠っているのだと思います。

「とととお母ちゃんはな、み~んな外で一生懸命がんばってたんやなぁって思ったんや。それでうちに帰ってきたら、ホントの自分を出すことが出来てたんやなぁ。そう考えたら、お兄ちゃんもお姉ちゃんも、弟も妹も、み~んなそれぞれ最高の子やで」と、学校での子どもたちの努力を褒め称えました。

ただ、そこで終わればいいのに、つい説教くさく続けてしまいました。

「でも、天理教の教祖「おやさま」はなぁ、内でも外でもどっちも良いほうがええって仰っててなぁ。ある信者さんに、『あんたは、外ではなかなかやさしい人付き合いの良い人であるが、我が家にかえって、女房の顔を見てガミガミ腹を立てて叱ることは、これは一番いかんことやで』(教祖伝逸話篇137「言葉一つ」)って教えてくださったお話が残ってるんやで」

すると、「それは、ととのことじゃが~!」と、今度は私が全員から総ツッコミを受けることになりました。

私は教会長という立場上、人前でお話をする役目を頂戴することが多くあります。すると、思いがけず評価を受け、しばしば良い子育てをしていると誤解されるのです。しかし、家に帰るとガミガミと叱ってばかりなのが現実。その表と裏を、子どもたちはよ~く見ていました。

なるほど、子どもたちの表の姿に釈然としなかったのは、自分の裏の姿を見ているように感じたからなのかも知れません。まさに、この親にしてこの子どもたち。結局、私とそっくりでした。

こうして、子どもを育てているようで、子どもに育てられているのだなあと、しみじみ感謝の気持ちが湧いてきました。きっと教祖は、「子どもは親の鏡なんだよ」と、子どもたちの姿を通して、むしろ私にこそ伝えたかったのでしょうね。

わが家では、夫婦であまりにも子どもたちを叱ってしまうので、せめて寝る前は幸せな気持ちになってほしいとの思いから、「いいことさがし」を毎晩行っています。それぞれがその日にあった良かったこと、嬉しかったことを報告し合うのです。始めてからもう六年目になります。

その日の夜、私と妻が、子どもたちが全員、先生に褒められたことが今日嬉しかったことだと伝えると、みんな照れくさそうに笑いました。そしてみんなで神様にお礼を言い、お互いにお礼を言い合って布団に入りました。

今日も相変わらずけんかが絶えませんが、せめて「うちが一番よい」と言ってもらえるような家族でありたい。本音が出せる家庭でありたい。ただ、そう強く願う毎日です。

 


 
見栄っ張り

 

平凡でつまらない人間だと思われるのが嫌で、つい身の丈に合わない高価な時計やスーツを買い求めてしまうというAさん。無理をしてローンを組むので、経済状況は悪くなるばかりです。他にも、人が嫌がるような仕事やプライベートな頼まれ事も、見栄を張って引き受け、失敗してしまうこともしばしば。「またやってしまった…」と後悔することも多いのだとか。どうにか、この見栄っ張りな性格を直したいといいます。

自分で自分の性格を変えるのは難しいことですが、教えに沿って考えてみましょう。

天理教教祖・中山みき様「おやさま」が仰せられた、次のようなお言葉があります。

「お屋敷に居る者は、よいもの食べたい、よいもの着たい、よい家に住みたい、と思うたら、居られん屋敷やで。よいもの食べたい、よいもの着たい、よい家に住みたい、とさえ思わなかったら、何不自由ない屋敷やで。これが、世界の長者屋敷やで」(教祖伝逸話篇78「長者屋敷」)

これは、教祖のいらっしゃるお屋敷でつとめる者の心構えを諭されたお言葉ですが、いまを生きる私たちの誰もが心掛けるべきことではないでしょうか。何事においても、まずは今自分に与えられているそのままを「これで十分結構だ。ありがたい」と喜ぶこと。それができたら、もう何不自由ないのと同じです。いつでもどこでも、とても豊かな気持ちで生活できるはずです。

逆に、人と比べて不足をしたり、自分にないものを欲しがったりすれば、生活自体がみじめでつまらないものになってしまいます。無理をして高価なものを身につけても、ありのままの自分が余計に貧しく感じられてしまうだけでしょう。

その一方で、人が嫌がるような仕事や頼み事を引き受けるのは、決して悪いことではありません。その達成に向けて懸命に努力すれば、自信にもつながるでしょう。ただ引き受ける場合にも、自分の身の丈にあっているかの冷静な判断は必要です。その場限りの見栄で、ただ評価してもらいたいがために無理をしてしまっては、後悔するのは目に見えています。

もしかすると、Aさんの周りには、人がうらやむようなお金持ちや才能あふれる人たちがいるのかもしれませんが、何もその人たちと比べる必要はありません。普通であること、平凡であることはむしろ喜ぶべきことです。何より健康に恵まれ、仕事ができているのですから、これ以上の喜びはありません。

神様のご守護によるこの世界は、よいものを食べたり、よいものを着たり、よい家に住むのとは別の、もっと大きな喜びで満ちあふれているのです。

(終)

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