(ラジオ天理教の時間)
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第1123回2021年4月24日・25日放送

頑張れ、私たち!

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芦田 京子

文:芦田 京子

第1115回

第二詩集

中島みゆきさんの詩集が道友社より出版された。彼女の詩や歌に惹かれるのはなぜか、詩集を読んであらためて考えた。

第二詩集

奈良県在住・医師  友永 轟

 

私は中島みゆきさんの歌が好きです。今から46年前に世界歌謡祭でグランプリを受賞した「時代」はお気に入りの一つです。

昨年10月、道友社から彼女の詩集が出版されました。「中島みゆき第二詩集 四十行のひとりごと」という控えめな題名で、可愛らしい装丁の本です。

彼女の歌にどうして惹かれるのか、詩集を読みながら考えました。まず、出てくる言葉が、可愛いギャル風のものから、天上の厳かな神を連想させるものまで、枠にはまらずとても自由で、そこが彼女らしい魅力ではないかと思います。

どなたも同じかもしれませんが、私は「今がいちばん」と思って喜ぶことがなかなかできません。自分への不足、周りへの不満、先への不安ばかりが絶えず頭の中で渦巻いて、今のこの時を喜び感謝することをつい忘れてしまうのです。

おととし、心療内科医の友人が亡くなりました。彼は亡くなる数カ月前に手紙をくれました。自身の病気の深刻さを思ってか、「Here and Now」という言葉を私に贈ってくれました。「今、ここにあることの幸せを噛みしめよ」と教えてくれたのだと思います。

みゆきさんの詩集を読むと、随所にこれに似た思いが伝わってきます。例えば「一寸先は闇」という言葉がありますが、彼女はこれを「一寸先のために 今できることをするほうが実用的」と解釈し直しました。

この世に深い悲しみや引き裂かれるような苦しみ、痛みのあることを彼女はきっと知っています。その上で、苦痛にもがく人々を何とか奮い立たせ勇気づけようと、たくさんの素晴らしい歌を作り続けているように思えます。

それに加えて、優しさに満ちています。「大丈夫だよ」と、心のエリをそっと押さえてくれるのです。この優しさは、深い悲しみの中から生まれてきたと、私には思えてなりません。

1975年、世界歌謡祭でグランプリを受賞した直後、彼女は大切なお父さんを亡くされています。北海道で医院を開業されていたお父さんが突然倒れ、家族の生活は危機に直面したに違いありません。私も同じ開業医ですから、どれほど大きなダメージになるか想像がつきます。何もないところから何とか開業できた私には、一寸先の闇が耐えがたい恐怖でした。

彼女は詩の中で、お父さんとの別れにさりげなく触れたり、また別の詩では、祭りの日にその面影と出会う場面が登場したりと、お父さんに対する熱い思いがつづられています。

私は、「産土(うぶすな)」という言葉をこの詩集で初めて知りました。お産の「産」に「土」と書きます。「その人の生まれた土地」という意味だそうですが、そこには生命の元、人間が世界に放たれた「元の場所」という意味も含まれているでしょうか。人間同士、同じ「うぶすな」で育まれた幸せな気持ちを忘れず、周りに喜びを広げる陽気な心で生きよ、という彼女のメッセージなのかもしれません。

詩集の中で今後の世界について、彼女は重大な問題提起をしています。

意志で踏みこたえて人は陽気にしているが、くじけた意志を救う陽気はどこにあるか。ファイトし続けて生きる人たちが一旦くじけた時、再び立ち上がる力は陽気から生まれるのか。彼女は、「そこらあたりが 我々の宿題」とつづっています。

私も医者になって50年、これまでの人生に十分満足はしています。なのに申し訳ないことに、いつも不足不満をいっぱい顔に出して暮らしているのです。

おそらく「うぶすな」のことを忘れてしまっているからでしょう。私という人間は父母から産まれ、父母はそれぞれの父母から産まれ、その流れが営々と続き生命の始まりにまで遡る。それを頭では理解しても、そんなのは当たり前のことで、人間が今ここにいることも自然の出来事の一つだと捉えているうちは、何の陽気な心も湧いてはこないのです。

このねじれた私の心を癒やし、涙の中から笑顔にしてくれる中島みゆきさんの歌は、陽気心の産土かもしれません。

人類発祥の本元を知り、元の親である神様の思いを知れば、どんな時でも陽気心を持ち続けることができると教えられています。人類は長い年月をかけて進化してきたと、科学はいとも簡単に語りますが、実際には私の数十年の人生でさえ、悲喜こもごもの出来事があり、それを越えて今があります。一つの人生が何万回も繰り返され、私につながっていると思えば、今ここに居る私の存在が、正しく有難いものだと理解できます。

命は本当に大切なものです。その命を今ここで、自由に思い通りに使わせてもらえることの幸せを心に刻まねばならないと、この詩集を読んであらためて考えさせられました。

 


 
幸せと、少しの不幸せ

 

天理教の教会に相談にやって来る人は、それぞれが何らかの悩みごとや心配事を抱えています。当然「私は十分幸せです」という人よりも、「あまり幸せではありません」と感じている人のほうが多いでしょう。

しかし、その悩みの度合いは人それぞれで、傍から見て大した問題ではなさそうなのに、これ以上の苦しみはないと訴える人がいるかと思えば、その一方で、誰が見てもこれ以上のつらい状況はないだろうと思われるのに、けっこう気にせずに暮らしている方もおられます。この違いはどこから来るのでしょうか。

ある日の夕食の席。メニューは全員同じです。ぜいたくとは言えない、ごく普通のおかずが並んでいます。

ニコニコと嬉しそうに食べているAさんに、隣りにいたBさんが、「おいしいですか?」と尋ねました。Aさんが「はい、おいしいです」と答えると、Bさんは「あなたはいいですねえ。私は常日ごろの習慣から、お酒とお刺身がないと夕食を食べた気にならないんですよ」と、やや不満そうに言いました。

さて、AさんとBさんでは、果たしてどちらが幸せでしょうか。Aさんは普段ほとんど晩酌をしませんし、お刺身などめったに食べません。はた目には、お刺身を肴に毎日お酒を飲んでいるBさんのほうが幸せそうに見えます。しかし、幸せを喜びの量で測るとすると、同じものを出されて「おいしい」と喜んでいるAさんと、「お酒もお刺身もない」と不満を口にしているBさんとどちらが幸せなのか。考えてしまいますね。

しかし、そんな贅沢とは無縁なAさんでも、次の日から毎日お酒とお刺身を出されたらどうなるか。しばらくは幸せだなと感じるでしょうが、あっという間にそれは当たり前になってしまいます。そして、それが当たり前になったら、次はそれ以上のものが欲しくなるのです。

「幸せ」は、それ単独では存在できません。「少しの不幸せ」という下敷きの上に乗っています。理由は簡単です。「幸せ」はしばらくすると「当たり前」に変化するからです。お酒とお刺身を「幸せ」と感じるためには、それを食べられない「ちょっと不幸せ」という下敷きが必要なのです。

幸せを下敷きにしている人は、良かった頃の思い出や、幸せそうな人の姿が基準になりますから、自分の少しの不幸せばかりに目が行ってしまい、口から出る言葉は不平不満ばかりになります。視点を変えて少しの不幸せを下敷きにすると、満たされている部分だけが見えてきて、幸せを味わうことができるようになるのです。

さらに言えば、少しの不幸せの代わりに下敷きになるものがあります。それは「感謝」です。物への感謝、そして、そのすべてをお与えくだされている「神様への感謝」です。当たり前を決して当たり前にしない魔法が、この感謝なのです。

幸せは絶対的な条件が決まっているものではありませんし、その総量が決まっているものでもありません。その時その時の自分の心が、幸せの中身とその量を決めています。

天理教では、この幸せのことを「陽気ぐらし」と呼んでいます。陽気ぐらしは、はるか彼方にあるのではありません。心一つの持ち方で、誰にでも、今すぐにでも味わうことができる、と教えられています。

(終)

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