第1336回2025年5月30日配信
真実の種と肥やし
仕事現場での挨拶やコミュニケーションが、仕事の内容に大いに関わってくることがある。教祖のお言葉から学ぶ。
真実の種と肥やし
埼玉県在住 関根 健一
私の父は自営業で土木建築業を営んでいました。二人の姉の下に生まれた私は、いわゆる「末っ子長男」。父にとって待望の男の子だったこともあり、幼い頃から現場に連れて行かれ、作業を手伝う母と一緒にセメントを触りながら、遊び半分で手伝いの真似事をしていました。
現場の職人さんたちからは、「おう、関根さんとこの跡取り息子」とからかわれつつも、可愛がってもらった楽しい思い出があります。
中学生になる頃には身体も大きくなり、まだ一人前とは言えないものの、父からも戦力として期待されるようになりました。自然と「自分もいずれこの仕事を継ぐんだ」という意識が芽生えました。
しかし、それと同時に、幼い頃には気にならなかったことが気にかかるようになりました。現場に着くと、大工さんや水道屋さんなど、その日作業をする職人さんの顔が見えるたびに「おはようございます!」と挨拶をします。礼儀に厳しい父の姿を見て育った私にとって、それは当然のことでした。
しかし、わずかではありますが、こちらが挨拶をしても無反応の職人さんがいました。30年以上前のことですから、当時は昭和初期や大正生まれの職人さんも多く、「職人は黙って仕事で成果を出す」という昔気質の方も少なくなかったのでしょう。
ただ、必ずしも年配の人が挨拶をしないわけではなく、年代の問題というよりも、その人自身の性格や事情があったのかもしれません。とは言え、挨拶を返してもらえないと、やはり寂しさや違和感を覚えたものです。
建築現場では、人の出入りや材料の搬入がかち合わないように、職人同士の調整が欠かせません。現場監督が不在のことも多く、その場にいる職人たちが連携し、作業を進める場面も頻繁にあります。
そんな時、朝に気持ちよく挨拶を交わした人と、挨拶を返さなかった人を比べると、どうしても後者の人には協力的な気持ちが湧きにくいものです。
もちろん、当時の私の未熟さもあったとは思いますが、実際に多くの人が日常的なコミュニケーションによって仕事への影響を受けるものです。裏を返せば、挨拶一つで相手の態度が好意的に変わるということ。今風に言えば、挨拶はコストパフォーマンスの良い行動の代表例でしょう。
一方で、挨拶を無視することは、「あなたにマイナスイメージを持っていますよ」と表明しているのと同じで、実にもったいない行為だと思います。
先日、ある仕事で業者Aさんと、それに関連する工事を行う業者Bさんと顔合わせをしました。Aさんは知人の紹介で、今回初めて仕事を依頼する方でした。打ち合わせの場に現れたAさんは、咥えタバコのまま、ろくに挨拶もせず打ち合わせを始めました。
私は面食らい、注意するタイミングを逃してしまいましたが、なんとか打ち合わせは終わり、翌週から工事が始まりました。
しかし、順調に思えた工事の中で、Aさんの会社の作業ミスが発覚しました。急きょ、関連業者と対応策を検討することになりました。発注元である私は責任を認め、平身低頭お詫びをし、なんとか理解を得ることができました。
その時、関連業者の担当者がポツリと、「Aさん、最初の打ち合わせの時に咥えタバコでしたよね。なんとなく心配してたんですよ…」と漏らしたのです。
この件に関しても私に責任があることなので、謝罪して翌日からAさんの会社に改善を求めて対応しました。仕事の質はもちろん大切ですが、普段のコミュニケーションが相手の印象に影響を与えることを改めて痛感した出来事となり、私も深く反省して教訓としました。
教祖伝逸話篇の中のお話に、「言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる」という教祖のお言葉があります。(137「言葉一つ」)
人間の息は、口を大きく開いて「ハ~」と吐くと温かく、小さくすぼめて「フ~」と吐くと冷たくなる。同じように、言葉も使い方次第で相手の心を温めることも、冷ますこともできる。そう教えて下さっていると解釈できます。
他にも教祖は、言葉の大切さについて様々な教えを残してくださいました。その思いを受け継いだ先人たちは、「声は肥」肥やしであると例えました。
これは「声」と「肥」の単なる語呂合わせではなく、深い意味を持つ言葉だと思います。肥やしは、それだけを土に蒔いても意味を成しません。作物を育てるためには、「種」が必要です。
仕事ならば、まずしっかりとした技術や誠実な取り組みが「種」となり、その上で気持ちの良い挨拶や言葉が「肥やし」となって、より良い仕事へとつながる。おたすけの現場であれば、「どうしてもたすかって頂きたい」という思いと、真実を尽くす行いが「種」となり、そこに温かい言葉が「肥やし」となってご守護へとつながる。
つまり、人生を豊かにするためには「種」となる誠実な心や行動が必要であり、そこで心からあふれ出す温かな言葉が発せられることで、種が芽を出し、豊かな実りにつながるのです。
人生の実りを豊かにするための種と肥やし、どちらも大切にしていきたいと思います。
待っていたで
私たちの信仰する親神天理王命様は、人類の生みの親であり、かつ育ての親でもあります。また、その教えを私たちに明かされた教祖・中山みき様を「おやさま」とお呼びしています。どちらも「おや」が付きますが、天理教の人間観は、親と子のつながりが基本になっています。親の立場である教祖は、常に子供の帰りを楽しみに待っておられる、そのような逸話が数多く残されています。
文久元年、西田コトさんは、歯が痛むので稲荷さんに詣ろうとしていたところ、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、救けてくださる」ということを聞いたので、さっそくお詣りしたところ、教祖は、「よう帰って来たな。待っていたで」と温かく迎えられました。(教祖伝逸話篇8「一寸身上に」)
また、文久三年、桝井キクさんが、夫の喘息のために、方々の詣り所や願い所へ足を運んだのですが、どうしても治りません。そんな時、近所の人から「あんたそんなにあっちこっちと信心が好きやったら、あの庄屋敷の神さんに一遍詣って来なさったら、どうやね」と勧められ、その足でおぢばへ駆け付けたところ、教祖は「待っていた、待っていた」とやさしい温かなお言葉を下さり、キクさんを迎えられました。(教祖伝逸話篇10「えらい遠回りをして」)
どちらも初めてお屋敷に出向いた人のお話ですが、教祖は可愛い我が子が帰って来るのを以前から待ちわびておられたかのようにして、迎え入れられています。
様々な病気や事情を抱え、初めて行く所でどのように迎えられるか不安な中、「待っていたで」と温かく迎えられた人々は、どれほど安堵し、救われた気分になったことでしょう。
親神様が人類の親であるなら、私たちの生活は、親神様による壮大な子育ての中にあるのではないでしょうか。親は常に子供の成人を待ち、大きく立派に育つことを願っています。
お言葉に、
たん/\と月日にち/\をもハくわ
をふくの人をまつばかりやで (十三 84)
この人をどふゆう事でまつならば
一れつわがこたすけたいから (十三 85)
とあります。
親神様が「待つ」ということの背景には、「一れつわがこたすけたい」とあるように、子供が少しでも陽気ぐらしに近づけるように導いてやりたい、との大いなる親心があるのです。子供の成長には時間がかかります。私たちも時間をかけてじっくりと、親神様の思いに沿う、たすけ合いの心を培いたいものです。
(終)