第1408回20126年10月16日配信
道しるべ
両親が残してくれた言葉や行いは、私にとっての大切な「道しるべ」。それを次の世代へとつないで行きたい。
道しるべ
岩手県在住 相澤 加奈子
一年に一度は必ず登場する、我が家の手作りおはぎ。お彼岸や、春・秋の御霊祭や年祭、またお世話になった方へのお礼に一度にたくさん作ります。あんこときなこの二種類が我が家の定番です。
このおはぎは、私が幼い頃から実家の母が作ってくれていたもの。私は決まってきなこのおはぎを選んでいました。気がつけば、私も何かある度におはぎを作るようになっていました。
実家の母は、信者さんのお宅に行く時やお世話になった方を訪ねる時、手作りの料理やハンドメイド雑貨などを片手に出かけて行くことがよくありました。母が料理をしている横で私がのぞき込んでいると、「食べることのお手伝いをすることで、人だすけがさせてもらえるんやで。食べることは一生ついてくるから、加奈子もお料理が出来るようになったらいいなあ~」と、よく聞かせてくれていました。
病気の方のお見舞いに行く時には、付き添いの方のお弁当を準備して、「こうしてお弁当を持っていったら、病気の方を支える家族のおたすけもさせてもらえるんやで」と、いそいそと出かけて行きました。そうした母の姿が、大人になった今、色んな場面で頭に浮かび、「あの時言ってくれていたことは、こういうことだったんだなあ」と気づかせてくれ、私が歩んでいく手だすけとなっているのです。
色々な方のお話を聞かせて頂く中で、「幼い頃からの両親の教えが今の私を作っています」とか、「恩師がいつも言っていた言葉が支えになっています」というようなことをよく耳にします。
そうした時、自分が親になった今、どんなことを子供たちに伝えて、残していきたいのだろう、どんなことが周りの人の心に残ってくれるのだろうと考えることがあります。残そうと思って残せるものでもありません。こちらが伝えたいと思っても、上手く伝わらないことも沢山あるのです。でも、自分の中で大事に思っていることや、強い思いなどは、無意識のうちに言葉や行動に表れ、それがちょうど良いタイミングで自然に伝わっていくものなのかもしれません。
私が20代の頃、心が落ち込み、どうしても仕事先に足が向かなかった時、当時住んでいた寮に両親が訪ねて来てくれました。何も言えずに黙っている私に、父は「大丈夫や。加奈子は大丈夫。お父ちゃんとお母ちゃんの子やろ。神さんも守って下さるから大丈夫や」と言ってくれました。
その時の何の根拠もない「大丈夫」という言葉を、今も何かある度に思い出します。そして、「大丈夫、守ってもらってる」と不思議な安心感に包まれるのです。自分が親となった今、子供たちが落ち込んでいる時には、あの時の父と同じように、「大丈夫、大丈夫。あなたは父ちゃんと、かあかんの子やから。神さんがちゃんと守って下さってるから」と、気付けば口にしています。両親の言葉や行動が、私の心に大切なものとして残っていて、それがまた次の世代へとつながっていくのだと思います。
天理教では、親神様が、この世界と人間をお創り下された、私たちの「をや」であると聞かせて頂きます。そして教祖・中山みき様「おやさま」は、今はお姿こそ拝見出来ませんが、魂はそのままに、ご存命でいつも私たちをお見守り下さっています。
親神様・教祖は、両親と同じように、何かある度に「大丈夫、大丈夫」と、私たちの幸せを願いながら、その時々に色んな方法で手だすけをして下さいます。
私が住む教会から、車で10分ほどの所に上級の教会があります。その上級教会の奥さんが、4年前に突然病気で出直されました。出直しの前日は信者さん宅の講社祭をつとめ、夜はいつもと変わらず休んだのですが、翌朝具合が悪くなって、そのまま悲しいお別れとなりました。
私はいつも奥さんのことを、「人を褒めるプロ」と陰で呼んでいました。奥さんが話す言葉や仕草には、真似をしようとしても出来ない、人を喜ばせる不思議な力がありました。
奥さんの口癖は、「ご苦労さん」「教祖喜んで下さってるよ」「素晴らしいね~」など、相手が嬉しくなるような言葉ばかり。私も何度もその言葉にたすけて頂きました。奥さんが作る自慢の煮豆と朝鮮漬けは子供たちの大好物で、今も食卓に煮豆が出ると、「あぁ~、奥さんのお豆の煮たのが食べたいなぁ。奥さんの作ったお豆美味しかったよね」と必ず話題になります。
そうした奥さんの存在が、お別れした今も私たちを温かい心にして下さいます。大事な行事などの時には、「奥さんならこうしてただろうなあ。こうするときっと喜んで下さるだろうなあ」との思いが湧いて、物事がうまくいく方向へと導いて下さるのです。
両親や奥さんに限らず、何かを見ればその方の姿や言葉を思い出す。何かを食べればその方を思い出し、温かい気持ちになる。心に与えて頂いた大切なものは、自分が迷った時や悩んだ時の道しるべとなってくれるのだと思います。
私も、たとえ誰かの道しるべにはなれなくても、日々の暮らしの中で、自分が大切にしていることを心に強く思い、言葉で伝え、行動に移していきたいです。そして、「大丈夫、大丈夫」と、いつでも人に寄り添えるような優しい心を忘れず、神様や周りの方から頂いた道しるべを頼りに、明るく歩める自分でありたいと思います。
優しい心、恐ろしい心
私たち人間は、「心一つが我がのもの」であり、親神様から心を自由に使うことを許されています。ということは、極端に言えば、人を救けたいと思うこともできるし、人を憎み、傷つけてやりたいとも思えるということです。
親神様は人間が自らの心で、自主的に陽気ぐらしをするのを見たいとの思いから、心の自由を認めているのです。しかし、良きことを思う場合もあれば、悪きことを企む場合もあり、本当に私たちの心はちょっとしたことで進むべき方向を見失い、陽気ぐらしへの道を自ら遠ざけてしまうのです。
なんぎするのもこゝろから
わかみうらみであるほどに
(難儀するのも心から、我が身恨みであるほどに)
このお言葉は、誰の心が原因で難儀不自由な道を通るのかをはっきりと教えられています。それはまさしく自分自身の心なのです。
次のようなお言葉があります。
「心一つというは優しい心もあれば、恐ろしい心もある。知らず/\の心もある。どんな事見せても、人の事のように思てはその日限り、あれはあれだけと思えば、それまでのもの」(M25・1・13)
心についての実に鋭いお諭しです。優しい心で人とつながり合っていくのが、陽気ぐらしへの近道であることは誰でも分かるはずです。しかし、私たちには恐ろしい心を使う可能性も大いにある。人を憎んで傷つけようとする心も持っている。知らず知らずのうちに、無意識に癖性分がむき出しになってしまう場合もある。
また、親神様からどんな事情を見せられても、あれはあれ、気にするほどのことでもないと、まるで他人事のように受け流してしまう。言わば、心を入れ替えるチャンスを親神様が見せて下さっているのに、まるで知らんぷり。自ら心の成人をストップさせてしまうのです。しかし、誰しもがこの厄介な心というものを使って、人生を通らなければなりません。
お言葉に、「どんな暗がりの中でも、心一つで通れる。どんな明るい中でも、心が無けりゃ通れようまい」(M24・5・29)とあるように、親神様はどんな中でも心一つで通れるのだと、励まして下さいます。
そして、その究極の心遣いは、何と言っても「人をたすける心」になることです。
わかるようむねのうちよりしあんせよ
人たすけたらわがみたすかる (三47)
(分かるよう胸の内より思案せよ、人たすけたら我が身たすかる)
自らの心をコントロール出来るのは、自分しかいないのだ。そのことをしっかり自覚し、優しい心、人をたすける心で日々を通りたいものです。(終)
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