第1397回2026年7月31日配信
出会い
娘の幼稚園の先生とママ友のご主人、大事な人が立て続けに出直した。神様は何を教えようとしておられるのだろう…。
出会い
岩手県在住 相澤 加奈子
3年前の12月、教会の月次祭の直会を終え、片づけをしていると、携帯電話に着信があったことに気がつきました。滅多にかかってこない方からの着信で、しかも何度もかかってきていることから、急用に違いないとすぐに折り返しました。
その方は、「…もう聞いたかな?」と、声を詰まらせながら話し始めました。何やら胸がザワザワしながら話の続きを聞くと、当時三女が通っていた幼稚園の先生が亡くなったという悲しいお知らせでした。
その先生は長男が入園した時の担任で、長男の卒園と同時に他の園に異動になり、7年後、三女が入園した時に、副園長として戻って来られたのです。また、先生のご主人は祖母が通うデイサービスの所長さんをしており、何ともご縁を感じずにはいられない方でした。
先生が子供にかける温かい言葉と思いやりのある行動が、私は大好きでした。子育ての難しさに悩む私にも、いつも温かい言葉をかけて下さり、どれだけたすけられたか分かりません。そんな先生との余りにも急すぎるお別れに、電話を切った後泣き崩れてしまい、なかなか事実を受け入れることが出来ませんでした。
実はその幼稚園は閉園が決まっていて、数か月後に迫った閉園式のために一緒に活動していた最中のお知らせでした。数日前にお会いした時は、あんなにお元気だったのに…。一緒に閉園を迎えたかった。何度思い返しても、先生のお元気な姿が浮かぶばかりで、きちんとお礼が言えなかった後悔で、ただただ涙があふれるばかりの日々を過ごしていました。
天理教では、死は「出直し」であり、古い着物を脱いで、新しい着物と着替えるようなもの。神様からお借りしている身体をお返しして、また新しい身体をお借りしてこの世に戻ってくる、と聞かせて頂きます。
ですから、出直しは悲しいだけじゃない、神様の親心が込められているんだと、頭では分かっていながらも到底そんな気持ちにはなれず、落ち込むばかりでした。しかし、時間が経つにつれて、悲しんでばかりではいけない!このお別れを通して、神様は私に何を教えようとして下さっているのかと考えるようになりました。
数えきれないほどたくさんのことを先生から教わりましたが、その中でもこのお別れを通して強く感じたことがありました。
それは、後悔のないように日々を過ごすということ。今できることを明日に持ち越さない。会いたい時に会いたい人に会いに行く。こうと決めたら迷わず行動に移す、ということです。
ちょうど教祖140年祭に向かう三年千日の一年目の年で、もうすぐ二年目を迎えるという時に、行動の鈍い私に「またいつか」ではなく、「今なんだよ」と、神様が先生を通して教えて下さったのではないかと思えたのでした。
それから二週間ほど経ったある日、家族ぐるみで仲良くしていたママから着信がありました。その家族とは、教会の近所に引っ越してきたのをきっかけにすぐに親しくなり、子供さん達を教会の行事にお誘いしたり、こどもおぢばがえりにも何度も参加してくれていました。
電話があったその日は平日の昼間で、こんな時に着信があるなんて珍しいなあ、と思いながら電話に出ました。
「かなこさん、お願いがあるんだけど…。子供たちを学校に迎えに行って病院に連れて来てほしいの」
病院と聞いて驚いて、「どうしたの?」と尋ねると、声を震わせて「パパが亡くなった…」と。
ご主人が亡くなった…。時が止まり、頭が真っ白になりました。状況がうまくつかめない状態でしたが、動揺する彼女のことを思うと、とにかく今、自分がすべきことは子供さん達をいち早く病院へ連れていく事だと、すぐに気持ちを切り替えました。
私自身もショックを受けるような現実を、家族の皆さんは正面から受け止めなければならない…。私はママや子供さん達の背中をさすってあげるのが精一杯でした。
自宅に帰り、私は家族会議で子供たちに話をしました。みんな大好きだったご主人との突然のお別れに、家族全員が泣き崩れました。どんなに後悔しても戻ってこないことは分かっています。それでも、彼の温もりや優しさを忘れたくなくて、みんなで大好きな彼に何度も会いに行き、お別れをしました。
ここにある親神様の親心とは何か。真意はどこにあるのか。たった二週間前にも同じ気持ちになったのに、なぜまた大切な人とお別れをしないといけないのだろう。この辛い中にも、親神様は喜べることを準備して下さっているのだろうか…。
そんな気持ちのまま、その家族のそばにいて、同じ時間を過ごしていると、次第にたとえどんな小さなことでも力になりたい。後悔のないように、全力でたすけていきたい。この家族の皆さんとは出会うべくして出会い、それまでにもたくさんの喜びを私自身が頂いていたんだ。そう気づくことが出来ました。
彼からもらった優しさは、主人や私、我が家の子供たちの中に確実に残っている。そう思うと、悲しい出来事の中にも喜びがあることに、心から感謝の気持ちが湧いてきたのです。親神様・教祖は、節の中にもちゃんと喜びを準備して下さっていたのです。
私はこれまで、人との出会いや巡り合わせは、親神様・教祖からのご褒美で、それが自分の財産になったと感じることが何度もありました。我が家の子供たちにも、いい出会いをお与え頂き、素敵な財産を増やしていってほしいといつも願っているのですが、この先生や家族との出会いは、間違いなく親神様・教祖からのご褒美だと思えるのです。
お別れは悲しいけれど、与えて頂いたご縁は生き続けるのだと思う時、「いつも通り当たり前に会える、一緒にいられる」ということが、どれほど大きなご守護であり、特別なことかという事を、先生やこの家族を通して教えてもらいました。
だからこそ、一日々々を大切にしていきたい! そして、良い出会いを与えて頂けるよう、たとえ一時は心を倒しても、その中にある喜びを見つけることが出来る自分でありたい。そう思えた出来事でした。
修行
宗教における修行とは、全身全霊を打ち込んで、真の知に到達するための実践であり、日頃私たちを捉えて離さない身体(しんたい)からの精神の脱却を目指すものです。そしてそれは、本来個人的なものとして、日常から離れた神秘体験を得たり、超自然的な能力を獲得することを目指します。つまりは「自らのために」という目的が第一義であり、そこに他者の入り込むすきはありません。
天理教の信仰においては、「里の仙人」ということがよく言われます。これは従来、修行者が世俗から隔離された所にあり、「山の仙人」と呼ばれてきたのと対比されてのことであると考えられます。
教祖・中山みき様「おやさま」は、晩に冷たい川の水に浸かってから、おたすけに回っていた者に、「この道は、身体を苦しめて通るのやないで」とお諭しになっています。
つまり「里の仙人」とは、どこまでも人と人との交わりという日常の経験の場にありながら、親神様の教えを心に治め、実行していくことを言われたものです。そこには、修行という言葉から一般的にイメージされる身体に負荷をかけるような様相は、どこにもうかがうことは出来ません。
では、天理教における修行とは、どのようなものか。次のようなお言葉があります。
「修行という、心の身を磨きに出るのや。修行、大切に扱うては修行にならん。そら水汲みや、掃除や、門掃きやと、万事心を磨くのが修行。」(M23・3・17)
ここに明らかなように、修行といわれるものが水汲み、掃除といった日常性の中にあることを示されています。すなわち、あくまでも日常の経験の中で、そこにあらわれる様々な出来事に関わりつつ、心のほこりを払う中に、親神様の真意を見出すことを求められているのです。
(終)
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