第1394回2026年7月10日配信
母が大切にしていたもの
未だ納骨をせず、母親の遺骨を丁寧に祀っているAさん。その側には教祖のお言葉が書かれていた。
母が大切にしていたもの
大阪府在住 山本 達則
ある日、50代後半の男性Aさんが、天理教の教会長をしている私に相談があるということで、訪ねて来られました。
Aさんは、父親が早くに亡くなり、母親と同居していました。そして、その母親もおととし亡くなったのですが、未だ納骨をせず、自宅に遺骨を置いたままになっているのです。
と言うのも、Aさんの両親は天理教の熱心な信者でしたが、Aさん自身は天理教のことはまったく知りません。父親が天理の納骨堂に入っているので、夫婦同じ所に入れてあげたいという思いはありながら、天理教に知り合いがいないので、どうしたものかと思案に暮れている所で、伝手を頼って私を訪ねて下さったのです。
私はさっそく手続きを進め、納骨の日を待ちましたが、Aさんの奥さんと一度もお会い出来ていなかったこともあり、納骨までに一度Aさんの自宅を訪ねることにしました。
母親の遺骨は、和室に丁寧に祀られていました。そして、その横にはA4ぐらいの大きさの紙に筆書きで何かの言葉が記されていました。
それはよく見ると、
「大恩忘れて小恩送るような事ではならんで」(M34.2.4)
という神様のお言葉でした。
大恩とは親神様のご守護であり、産み育てて下さる親の慈愛で、日常を生きる根源となる恩。一方で小恩とは、人間同士の日常の暮らしの中での恩。
つまり、人間同士の義理も大切だが、優先すべきは親神様の大恩に報いていく姿勢であり、その心を持ちつつ、小恩にも感謝することが大切であると教えられているのです。
母親は、主人が亡くなってAさんと暮らすことになった時、このお言葉の書かれた紙を、自分の部屋の枕元に大切に掲げていたそうです。Aさんは、その意味は分からずとも、「きっと母が大切にしている言葉なんだな」と思っていたとのこと。私は、自分で理解している範囲で、Aさんにそのお言葉についてお話しさせて頂きました。
天理教では、自分自身の身体をはじめ、家族、日常接する人たち、仕事や学校、生活環境など、自分の心以外はすべてが親神様からの「かりもの」であると教えられます。
朝起きて、準備を済ませ、仕事や家事に動き出す。いつもと変わらず務めを終えて、当たり前のように帰宅し、食事、入浴、就寝。ある意味「何の変哲もない一日」であり、「当たり前の一日」のように思えます。
しかし、本当にそうでしょうか?
朝、必ず目が覚めるという確約は、誰が出来るでしょうか。
食事がとれる元気な身体で、一日をスタートさせる事が出来るのは、当たり前のことでしょうか。
仕事場や学校まで何事もなく行け、いつもと変わらずに家路につけることは、それほど大したことではないのでしょうか。
それらのことを、家族の一人ひとりがやり遂げ、一日を過ごし終えることは、「当たり前」のことなのでしょうか。
人はややもすると、人間同士の義理や人情に対しては恩を感じやすいのですが、「生かされていることの大恩」に対しては、あまりにも当たり前過ぎて、感謝することを忘れてしまう。
そのことに気がつくのは、当たり前が当たり前でなくなった時です。当たり前のように過ごす、そんな感謝につながらない生き方に対して、立ち止まって見つめ直す機会を下さるのが、「当たり前でなくなる」こと。それが、様々な形でお見せ頂く「病気」や「事情」なんです。
天理教では「大恩」、つまりは親神様から頂く大いなるご守護にしっかりと感謝をさせて頂き、その恩に報いる生き方を教えられています。それは自分自身の身体のことだけではなく、家族やその他の人間関係に至るまで、すべてが親神様から与えられているもので、そのことにも感謝を忘れてはいけないと教えられているのです。
私は届かないながら、そのようにお話をさせて頂きました。
Aさんと奥さんは、深くうなずきながら私の話を聞いて下さいました。そして、「今のお話を聞かせて頂いて、母の姿と重ねてすごく納得できました」と、Aさんは言いました。
「母は、いつも子供たちに対して『ありがとう』とお礼を言う人でした。そして、私たちきょうだいにも、『誰に対してもお礼を言う事を欠かしてはダメだよ』と、口酸っぱく言っていました。私は今、天理教を信仰していませんが、幼い頃から知らないうちに、母に天理教の教えを伝えてもらっていたんですね」。
自分自身が、後に続く人たちに「幸せになってほしい」と願うならば、願う側が自分の生き方を見せていくという事が一番の近道なのだと、あらためて感じ入った出来事でした。
「かわい」のほこり
この教えは、陽気ぐらしへ向けて自ら心を入れ替えていく教えです。親神様は、陽気ぐらしに反する自分中心の心遣いを「八つのほこり」として戒められています。その中の一つ「かわい」のほこりについて、次のように教えられます。
「かわいとは、わが身さえ良ければ、人はどうでもよいという心。わが子を甘やかして食べ物、着る物の好き嫌いを言わし、仕込むべき事も仕込まず、間違った事も意見せず、気ままにさせておくのは、よろしくありません。また、わが身を思って、人を悪くいうのもほこり。わが身わが子が可愛ければ、人の事も思い、人の子も可愛がらねばなりません」
この洋服は可愛い、あの猫は愛らしい。そのように「可愛い」と思うこと自体は、素直で純粋な心遣いであり、何らほこりの対象とはなりません。しかし、一つの物に対してあまりに固執し過ぎてしまったり、また、自分が可愛い、わが子が可愛い、それ故、他人はどうなっても構わないという偏った愛情は、ほこりとなってしまいます。
身近に長く一緒にいる人に深い愛情が芽生えるのは、ごく自然なことです。しかし、その愛情の高まりゆえに、周囲の人々が目に入らなくなり、気づけば自分本位の考えに陥ってしまう。その隔て心こそ、陽気ぐらしへの道の妨げとなるのです。
教祖直筆による「おふでさき」には、
月日にハみな一れつハわが子なり
かハいゝばいをもていれとも (八 60)
一れつのこどもハかわいばかりなり
とこにへたてわさらになけれど (十五 69)
とあります。
その分け隔てのない親心については、先人が次のように語り継いでいます。
「教祖程、へだてのない、お慈悲の深い方はなかった。どんな人にお会いなされても、少しもへだて心がない。どんな人がお屋敷へ来ても、可愛い我が子供と思うておいでになる。
どんな偉い人が来ても、『御苦労さま』物もらいが来ても、『御苦労さま』その御態度なり言葉使いが、少しも変わらない。皆、可愛い我が子と思うておいでになる」
そして、その教祖のお姿にふれると、どんな人でもすぐさま感化されて心を入れ替えたというのですから、その包容力には驚くほかありません。
この教祖の深い親心に近づくことは到底叶いませんが、わが身わが子を思う気持ちを、少しずつでも人様のほうへ向けてゆく。そうして、「かわい」のほこりを取り払っていきたいものです。
(終)
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