第1386回2026年5月15日配信
みんなちがって、みんないい
私たち夫婦は七人の子供を授けて頂いたが、まさに七人七様、同じお腹から産まれても一人ずつ「得意なこと」が違う。
みんなちがって、みんないい
岩手県在住 相澤 加奈子
こども番組で流れてくる、金子みすゞさんの「私と小鳥と鈴と」の詩をメロディーにのせた「みんなちがって、みんないい」という歌が、私は大好きです。
私たち夫婦は、七人の子供を授けて頂きました。その子供たちはまさに七人七様、同じように育てているつもりなのに、のんびりなマイペースタイプの子や、お世話好きのちゃきちゃきタイプ。スポーツが得意な子もいれば、スポーツは出来るだけやりたくないけど絵を描くのが得意、などなど。
同じお腹から産まれても、一人ずつ『得意なこと』が違うのです。子育てをする中で、子供たちが自分で得意なことを見つけ、それを大切にしてもらいたいと、親として感じていました。
ある時、当時幼稚園に通っていた次女が、「お姉ちゃんは足が速いからいいなぁ」と、少し顔を曇らせて言いました。確かに長女は小さい頃から活発な子で、リレーの選手に選ばれるほど運動が得意でした。一方、次女はおっとりしていて、運動会のかけっこでもゴールするのは決まっていつも最後のほう。
そんな次女が通う幼稚園の面談で、先生から「彼女は遊びに集中出来ていないんじゃないかと、少し気になっています」と指摘を受けました。よく聞いてみると、次女は、一人で遊んでいるお友達がいれば、自分の遊びをやめてそちらに行き、また次は違うお友達のところに行き…と転々とする事がよくあり、「周りを気にし過ぎて、遊び込めていないのでは」とのことでした。
私はそれを聞いて、「いつも気にかけて下さってありがとうございます。そのお話を聞かせてもらって、すごく嬉しいです。きっと本人は、お友達が一人で寂しがっていると感じて、自分からお友達の所へ行ったんだと思います。そうしてあげてね、と教えたとしても誰にでも出来ることはではないと思うと、娘の行動がすごく嬉しいです」と答えました。
運動が苦手でも、周りに気を配って優しい行動が出来ること。それを自分の「得意」なことだと感じてほしい、そう思った瞬間でした。
親神様は、世界中のどの子にも、きっと素敵な「得意」をお与え下さっているのです。天理教では、こうしたことを「徳分」と聞かせて頂きます。一人ひとりに与えて下さっている徳分、しかし自分ではそれに気づけないこともあると思うのです。
周りの人がキラキラ輝いて見えて、自分には何もないと落ち込んでしまったり、出来ないことばかりが目について自信をなくしたり。私自身も何度もそう思ったことがあります。だからこそ、子供たちには与えて頂いた「得意」に気づいて、それを伸ばして欲しいと思っていました。
中学一年生の次男は、ある事がきっかけで字を書くことが得意になりました。私の記憶では、小学三年生までは特別字が綺麗な訳でもなく、「もう少し丁寧に書いて」と注意するほどでした。
ところが、四年生の時の担任の先生が連絡帳に書いた字を毎日チェックし、丁寧に書けた人にシールを貼ってくれたのです。そのシール欲しさに丁寧に連絡帳を書き始め、先生や私に「きれいに書いてあって見やすいね。字が上手だね」と褒めてもらううちに、次男本来の真面目さも手伝って、字を書くことが得意になったのです。
自分で気づけなくても、周りから言ってもらううちに自分の得意に気づくこともあります。次男のおかげで、みんなが言ってくれる事が力になると分かって、家庭内でもそれぞれの得意なことを声に出して言うことを心がけるようになりました。すると、「お兄ちゃんって、こういう所が得意だよね!逆にこういうのは苦手で、弟の方が得意だよね」というように、会話の中で自然に相手の「得意」な所が出てくるようになりました。
しかし、いつもそう思える訳ではなく、得意な所を見てあげたいと思いながらも、それとは真逆の「苦手」な所が目についてしまうこともしょっちゅうです。
小学二年生の三女は、幼少期から語彙が少なく、言葉で指示を受けても、それを理解するのが難しいことを指摘されていました。私も三女の小学校入学後の学習を心配していたのですが、いざ始まると、やはり上の子達の時よりも毎日の宿題の支援が必要で、いくら嚙み砕いて話しても理解してもらえません。
一枚の簡単なプリントを終えるのに一時間かかることもあり、「どうしてこれが分からないんだろう。さっき教えたばかりなのに」と、夕方の忙しい時間とぶつかって、私自身も次第にイライラすることが増え、三女の帰宅の時間を憂うつに思う日もありました。
でも、分からなくて辛いのは娘の方。涙を流しながら宿題に取り組む日もあり、そんな姿を見ると私も反省の日々でした。
そんなある日、上の娘二人が宿題に取り組む三女を見ながら、「妹は集中力が凄いよね!きょうだいの中で一番なんじゃない?」と言ったのです。
「たしかに!」そう口にしながら、三女の物事に取り組む集中力、その「得意」に気づかされたのです。毎日、学校から帰るとすぐに自分から宿題を始め、たとえ分からなくても、「やらない」とか「もうやめたい」という言葉は聞いたことがないほどでした。
他の子が一回で理解出来ることでも、三女には10回必要だという事もだんだん分かってきて、この子には何事にも向かっていく力があることを確信しました。
私が両手をひろげても
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のように
地面を速くは走れない
私がからだをゆすっても
きれいな音は出ないけど
あの鳴る鈴は私のように
たくさんな唄は知らないよ
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい
この詩のように、親神様から頂いた「徳分」「得意」が一人ひとり違っていて、それぞれの良さがある。日々の暮らしの中で、それに気づいてお互いに認め合える、そんな優しい心を忘れずにいたいと思います。
そして、その思いを周りの人たちにも映していけるよう、今日もみんなの「得意」を見つけて、声にしていきたいです。
歩き続ける道
道というものは、よく人生に例えられます。この天理教の教えは、信仰者の間では「お道」と呼ばれています。信仰生活とは自ら道を求める歩みであり、道は通るべきもの、そして教えは実行すべきものである、という意味からすると、「お道」とは実に味わいのある言葉です。
教祖・中山みき様「おやさま」は、直筆による「おふでさき」において、道に例えて次のようにお諭し下されています。
やまさかやいばらぐろふもがけみちも
つるぎのなかもとふりぬけたら (一 47)
まだみへるひのなかもありふちなかも
それをこしたらほそいみちあり (一 48)
ほそみちをだん/\こせばをふみちや
これがたしかなほんみちである (一 49)
「山坂や茨の生い茂ったあぜ道や、崖っぷちの道。刀を抜いて切りかかられるような危険もあるかも知れない。さらにその先にも、燃えさかる火の中や水が深くよどんでいる淵中など、様々な危ない道が待ち受けている。そうした道を通り抜けたら、やっと細い道らしきものが見えてきて、その細道を一歩々々着実に歩いていけば、ついには広い大きな道に到達する。これこそ目的地に通じる真の道なのである」
とにもかくにも、道と言われるからには、それはどこかに通じているはずです。しかし、そこに到達するまでには、途中色々な経緯のあることが予想されます。山道も、坂道も、袋小路もあるでしょう。舗装されて真っすぐに伸びている道もあれば、起伏やカーブの激しい道、でこぼこの悪路だってあるかも知れません。しかし、目的地へ近づくためには、それは避けては通れない道なのです。
誰しも、次のような経験を持っていないでしょうか。坂道を息をはずませて歩き、重くなった足を引きずって、やっと峠にたどり着いた瞬間、ぱっと視界が開け、素晴らしい光景が眼下に広がり、思わず我を忘れるといった経験です。それは、つらい道中もあったけれど、歩き続けてよかった、諦めて引き返さずによかったと、心の底から思える瞬間です。
日々の信仰生活の歩みにおいても、同じようなことが言えるのではないでしょうか。教えに沿って、迷うことなく、この道を歩いていきたいものです。この道は「通ってこそ道」、「続いてこそ道」とも言われます。
(終)
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