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第1362回2025年11月28日配信

たすけてもらう力

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関根 健一

文:関根 健一

第1361回

たすかるとは? リキゾウさんとの日々

ホームレス生活から教会へやってきたリキゾウさん。酒好きでトラブルも度々起こすが、どこか憎めないおじさんだった。

たすかるとは? リキゾウさんとの日々

千葉県在住  中臺 眞治

 

今から5年前、長年一緒に暮らしたリキゾウさんが78歳で出直しました。リキゾウさんは「信仰によってたすかっていく」とはどういうことかを私に考えさせ、教えてくれた方でした。今日はその日々について振り返ってみたいと思います。

昭和18年、戦争中にリキゾウさんは生まれました。中学を卒業後は印刷会社を転々としながら働いていましたが、50歳の頃、借金が重なり、消費者金融の取り立てが厳しくなって恐怖を感じるようになり、その状況から逃れるためにホームレスになりました。

10年ほどホームレス生活をしていたそうですが、当時、報徳分教会長を務めていた父に声をかけられ教会で暮らすようになりました。6年ほど働きながら報徳分教会で過ごし、その間に4度、おぢばで三か月間教えを学ぶ修養科へ行きました。何度も修養科へ行ったおかげか、出直して5年経った今でも色んな方から「リキゾウさん元気にしてる?」と声をかけられます。

私とリキゾウさんの最初の出会いは20年ほど前で、父からの電話がきっかけでした。「住み込みさんがお酒を飲み過ぎて警察署に保護されているみたいだから、迎えに行ってきてくれないか」とのことで、早速、車で署に向かいました。

到着後、警察の方々にお詫びをしながらリキゾウさんを車に乗せて帰ったのですが、車内でおしっこをしてしまいました。私は「あちゃー」と思い、帰宅後、洗車をしながら「次、迎えに行く時は絶対ビニールシートを座席に敷いておこう」と、固く決意したのを覚えています。

リキゾウさんはお酒が大好きな方で、何か気に入らないことがあると近くの公園に行き、そこで出会った仲間と酒盛りをしては数日帰って来なくなり、警察に保護されることも度々でした。しかし義理堅いところがあり、どこか憎めない昭和の男性でした。

元々は身体の丈夫な方でしたが、長年の不摂生がたたったのか、身体のあちこちが不自由になり、64歳の時、父と相談の上、ゆっくり過ごせる場所の方が良いだろうということで、千葉県にある私共の教会でお預かりすることになりました。

一緒に暮らし始めてからのリキゾウさんは、なぜかいつも怒っていました。他の住み込みさんに当たったり、物に当たったり。

扉の開け閉めもあまりに強く行うために、ドアが二か所壊れてしまったこともありました。私はその怒りの意味が分からず、リキゾウさんの言動を改めさせようと毎日何度も注意をしたのですが、状況が変わることはありませんでした。当時の私は、どうしたら相手を変えられるかということばかり考えていました。

そんなリキゾウさんも、月に一度だけ上機嫌になる時がありました。それは、元々暮らしていた報徳分教会の月次祭に行った時でした。到着して少しすると、リキゾウさんはフラッといなくなります。近くの公園にいる飲み仲間に会いに行くのです。そして何杯かごちそうになり、私たちが帰る時間になると戻ってきて、一緒に車で帰るというのがいつものパターンでした。

帰りの車中はずっと上機嫌で色んな話を聞かせてくれていたので、私は心の中で「いつもこのぐらい機嫌良くしてくれたらいいのにな」と思っていました。

リキゾウさんはお酒を飲めば上機嫌になるというわけではなく、教会で飲んでも不機嫌な状態は変わりません。今思えば、公園の飲み仲間とのつながりが、リキゾウさんにとって大切な意味を持っていたのだと思います。

余生をゆっくり過ごすために当教会に引っ越したわけですが、同時にそれはリキゾウさんにとっての大切なつながりを奪ってしまうことでもあったのだと、当時気がついてあげられなかったことを申し訳なく感じています。

リキゾウさんは他の住み込みさんとは一切会話をしない人でしたが、私と二人きりの時は色々と話をしてくれる人でした。その中で度々口にしていたのが、「自分は生きている価値のない人間なんだ」という苦しい言葉でした。その都度、私は神様の親心について話をしたのですが、「神様なんていないよ」と返してくるリキゾウさんに届く言葉はありませんでした。

そんなある日、リキゾウさんは倒れ、救急車で運ばれたのです。脳梗塞でした。幸い一命は取り留めたものの、歩くこともしゃべることも出来なくなってしまいました。

私は何とか元のような状態にご守護を頂きたくて、毎日入院している病院へおさづけに通いましたが、容態は変わりませんでした。それから二週間ほど経った頃、看護師さんから「病院として出来る治療はここまでですので、退院の準備を進めてください」と言われました。

治療はして頂きましたが、リキゾウさんは寝たきりで起き上がることが出来ず、口はろれつが回らず、なかなか言葉を聞き取れない状況でした。

一番不安なのはリキゾウさん本人のはずですが、当時の私はそのようなリキゾウさんを教会で受け入れる覚悟が出来ず、父に電話で相談をしました。すると「とにかく明日おさづけを取り次ぎに行くから」と言って、翌日千葉の教会まで来てくれました。

おさづけの直前、父がリキゾウさんに「今、修養科に行かせてあげたい人が二人いるんだけど、二人ともお金がないから、代わりにその費用を出してあげてくれませんか?」と尋ねました。するとリキゾウさんは、うんうんと二回うなずき了承したのでした。

父がおさづけを取り次ぎ、少し話をして帰った後、私はリキゾウさんに「なんで費用を出してあげようと思ったの?」と尋ねました。その費用は、リキゾウさんの貯金からすればかなり大きな金額だったからです。するとリキゾウさんは声をふり絞って、「本当は自分がおぢばに帰りたいけど、もう帰れないから」と答えてくれました。

自分自身が苦しい中で、おぢばを思う気持ち。人のたすかりを願う気持ち。そのリキゾウさんの気持ちに私は感動しました。そして、これからどんな生活になってしまうのだろうかという不安でいっぱいでしたが、病院からの帰り道で父に電話をし、「できるところまでリキゾウさんの介護をさせてもらおうと思う」と伝えました。

翌朝、病院から電話がかかってきました。「急に容態が良くなったので、家には戻らずリハビリ病院に転院しましょう」とのことでした。

驚いて病院に行くと、そこには元のように立って歩いているリキゾウさんがいました。しかも言葉も元通り話せるようになっていました。私は感激し、「神様だね」と伝えると、リキゾウさんは大きく何度もうなずきながらボロボロと涙していました。

その後、数カ月間のリハビリ病院での生活を経て、教会に帰ってきたのですが、教会に着いた途端に号泣。おぢばがえりをした際には、神殿を見ただけで号泣。私にとっても忘れられない思い出です。

退院後のリキゾウさんは、すっかり別人のように変わっていました。以前のように腹を立てる姿はなく、「ありがとうございます」とお礼を言ったり、「どうもすいません」と相手を思いやる言葉を使うようになりました。私が神様の親心について話をすると、いつも大きくうなずきながら涙する、涙もろくて穏やかなおじいちゃんに変わっていったのでした。

以前のリキゾウさんは、とても苦しい人生を生きてきたせいか、「神様なんていない」と空しく語る人でした。

ですが、病と不思議なご守護を通して、「この世は神様の慈愛に満ちている」と感じるようになり、その思いに心が満たされていったのだと思います。

リキゾウさんは5年前、78歳で出直しましたが、生まれ変わったリキゾウさんとどこかで出会い、また一緒に一杯飲みたいな、と願う今日この頃です。

 


 

調和とバランス

 

私たちが生きていく上で必要不可欠なことは、何ごとによらずバランスを保つことです。

たとえば、健康に暮らすということは、身体の中の働きのバランスが、ほどよくとれているということですね。食べ物を体内に取り入れ、体内のあらゆる臓器がうまく機能して、取り入れたものをエネルギーにする。そのエネルギーを消費して、運動をしたり勉強をしたり、働いたりする。その出し入れのバランスがうまくとれている状態が、健康であることの証しです。

家庭で言えば、家族がお互い仲良くたすけ合い、支え合って暮らすのが、まさしく健康的な家庭、調和の保たれたバランスのよい家庭です。

そして生きていく上で大切なのは、目に見えるものと、目に見えないものとのバランスです。ところが私たちはややもすると、目に見えるもの、形あるものにしか価値を見いだせずに、目に見えない「心」や「精神」といったものを軽く見てしまいがちです。

それはひと言で言えば、「自分さえ良かったら、今さえ良かったら」というエゴ・利己心からくるものです。しかし世の中の調和を保ち、また自分自身が幸せの道を歩むためには、自らのエゴを抑えて、人様のため、社会のためという選択肢を選ぶことが、バランスを保つために必要なことなのです。

天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、

 「人をたすけてわが身たすかる」

と教えてくださいました。

まさにこの教えこそ、調和とバランスの大切さを教えてくださっています。私たちが目指すべき「陽気ぐらし」の世界は、人をたすける精神がなければ成り立たない、ということであって、これが揺るぎない天の理だと思うのです。

(終)

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