第1291回2024年7月19日配信
「生き方が分からない」と嘆く少年
少年院を出て教会にやってきたA君。親の愛情を受けずに育った彼は、しばしば「生き方が分からない」と口にした。
「生き方が分からない」と嘆く少年
千葉県在住 中臺 眞治
私どもがお預かりしている畑沢分教会では、現在さまざまなたすけ合い活動を行っていますが、その中で補導委託と、自立準備ホームとしての活動があります。
補導委託は、非行のあった少年を家庭裁判所からの委託で数日間から半年間預かる制度です。家庭環境が複雑だったり、友人関係が良くなかったりで、今の場所から一度離れたほうが本人のためになると、家庭裁判所から判断された少年たちがやってきます。
また、自立準備ホームとしては、少年院や刑務所を出た後、帰る家がないという方を、保護観察所からの委託で数カ月間預かります。どちらも北海道のある教会長さんから「是非やった方がいいですよ」と勧めて頂き、妻にも相談の上、了承を得て始めた活動です。
この二つの活動で、一年半の間に八人の少年をお預かりしました。委託を受ける際には委託書という書類が届くのですが、そこには少年たちがどのような家庭環境で生まれ育ち、どのような非行歴があり、どのような困難を抱えているのかが記されています。
その中でも、特に驚かされるのは家庭環境です。もちろん、家庭環境が複雑だから非行に走るとは限りませんが、そうした中で少年がどんな思いを味わいながら生き抜いてきたのか、それを想像すると胸が締め付けられる思いがします。
ある少年、仮にA君とします。A君は罪を犯し、少年院に入ったのですが、収容期間を終える時、「家には帰りたくない」と、自ら家庭に戻ることを拒否しました。そのため、保護観察所の委託で当教会にやってきたという経緯があります。
A君は元々手持ちの衣類が少なかったので、私が「それなら一度家に受け取りに行ったらいいんじゃない?電話してみたら?」と提案しました。A君はちょっと嫌そうな顔をしながらも笑っていたので、「ほらほら」と言って携帯電話を渡し、連絡を取ってもらいました。
その直後、私は後悔することになりました。私が想像していたのは、長いこと会っていない子供を心配する親の声でした。しかし、現実は違ったのです。我が子を心配する言葉は一切なく、それどころかA君は親から一方的な罵声を浴び続けたのです。
その間、A君の声と身体は震えていました。そして、「二度と帰ってくるなよ!」という親の言葉で通話は途切れました。
電話が切れた後、本当に申し訳なかったと謝ると、A君は「いつも通りですよ。お酒を飲んでいる時はもっとヤバいです」とあきらめ顔で言いました。
「家族円満」というタイトルがついているこうした時間に言うのはふさわしくないかも知れませんが、「どんな親子も分かり合える」という考えは、恵まれた家庭で生まれ育った私自身が持つ幻想なのだと思い知らされた出来事でした。
子供に関心のない親、子供の気持ちを想像することが出来ない親はいます。A君の親が悪者だというわけではありません。親もまた様々な困難を抱えて生きているのだということを実感しました。
A君は教会に来て数カ月の間に、何度か私に「どう生きていけばいいのかが分からないです」と話してきたことがありました。大抵の人の場合、生き方は親から教わるものだと思いますが、それを経験していないA君にとっては、生きていくこと自体が不安なことだったのだと思います。
A君は衝動的な行動から、近隣住民や職場の方などとトラブルになってしまうことも度々で、私もどうしたらA君が幸せに生きられるのだろうかと悩み、色々と試みてはみるものの状況は変わらず、ただただ時間ばかりが過ぎていきました。
そのような中で半年ほど経った頃、A君と他愛のない会話をしている時、ふと彼が「最近毎日楽しいです」と言ったのです。私はその言葉に「あー良かったな~、嬉しいな~」と思うと同時に「なんで?」という疑問が湧いてきました。でも、次の言葉で、なるほどそういうことかと思いました。
「中臺さんの周りって、優しい人ばっかりですね」
A君はうちの教会で実施している「こども食堂」に、毎回ボランティアスタッフとして参加したり、また、天理教の行事にも度々参加してくれています。そうした場にはA君を理解し、味方になろうとしてくれる大人たちが大勢います。そうした人たちの存在が、A君の心に安心をもたらしているのだと思います。
子供に関心を持たず、子供の気持ちを想像することが出来ない親がいるのは事実ですが、その親の代わりを沢山の優しい大人で埋めていく、そういうやり方もあるのだと感じた出来事でした。
A君に限らず、世の中には生き辛さを抱え、生きていくことに不安を感じている方は少なくないと思います。そうした方々と、どう関わっていったらよいのか?
天理教の原典「おさしづ」では、
「どんな事も心に掛けずして、優しい心神の望み。悪気(あっき)々々どうもならん。何か悠っくり育てる心、道である。悠っくり育てる心、道である/\。」(M34・3・7)
と教えて下さっています。
そもそも人が育っていくというのは、時間のかかることなのだと思います。いけないことをした時に、「ダメだよ」と伝えることももちろん大切ですが、同時に「許す心」「あたたかい心」で関係していくことが大切なのだと思います。そうした積み重ねが、生き辛さを抱えて苦しんでいる方々の安心につながり、生き抜いていく力になっていくのではないでしょうか。
私自身の人生を振り返ってみても、間違いだらけの人生で、正しく生きてきたなんて口が裂けても言えません。その都度、周りの方に「しょうがないなあ」と許されながら日々を過ごしてきました。おそらくこれからもそうだろうと思います。
自分自身も許されながら生きていることを忘れずに、生き辛さを抱える人々に寄り添っていきたいと思います。
いまさいよくば
私たち人間には、人生の先々までを見通すほどの力はありません。ゆえに、目先の楽な暮らしを求めて、自分勝手な行動や考えに陥ってしまいがちです。
そのような私たちの心得違いを、天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、
めへ/\にいまさいよくばよき事と
をもふ心ハみなちがうでな (三 33)
と戒めてくださいます。
銘々が勝手に目先のことばかりを考える、今さえ良ければいいんだという刹那的な心づかい。それは全て間違っているとの仰せです。これは言い換えれば、自分のことばかり考えて周りが見えていない、また今のことばかり考えて将来を見据えていないということです。
さらに教祖は、
てがけからいかなをふみちとふりても
すゑのほそみちみゑてないから (三 34)
にんけんハあざないものであるからに
すゑのみちすじさらにわからん (三 35)
と、私たちの「あざない」あさはかな道の通り方が、いかに危ういものであるかをお示しくだされています。
私たち一人ひとりの存在は、神様がご守護くださるこの広い世界の中の一点であり、今とは、悠久の時の流れの中の、これまた一点に過ぎません。周囲の人々に気を配り、また先々のことに思いを馳せたり、過去を振り返ることによって、物の見方や受け止め方が変わり、身の処し方も自ずと変化してきます。今さえ良くばといった狭い視野、刹那的な考え方ではなく、神様の大いなるご守護を基準とした広い視野で、また長い目で物事を見るように心がけたいものです。
いまのみちいかなみちでもなけくなよ
さきのほんみちたのしゆでいよ (三 36)
今がどれほど困難な道中であっても嘆いてはならない。天の理に沿っていさえすれば、必ずや確かな本道に出られるのだから、それを楽しみに通るようにと、教祖は励ましてくださいます。
(終)