(天理教の時間)
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第1311回2024年12月6日配信

彼女に足らなかったもの

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1282回

みんな神様のこども

人生に行き詰まった人たちと、教会で生活を共にする日々。きっかけを与えてくれたのは両親だった。

みんな神様のこども

千葉県在住  中臺 眞治

 

私どもの教会では、様々な事情で行き詰った方々が共に生活しています。人数はその時々によって変わりますが、血のつながった家族以外に4人から8人の方が、入れ替わり立ち替わりで暮らしています。

仕事を失った人、DVから逃げてきた人、心を病んでしまった人、罪を犯してしまった人など事情は違いますが、一人ひとりは皆とても優しい方ばかりです。しかし、元々ぎりぎりの状況で生活をしていた中で、ちょっとしたことをきっかけに人との縁を失い、帰る家を失い、人生に行き詰って教会で暮らすようになったのです。

私は大学を卒業後、23歳の時から、そうした方々と一緒に暮らすようになり、今年で20年目になります。そのような暮らしを始めるきっかけを与えてくれたのは両親でした。

私は、東京の目黒区にある教会の次男坊として生まれ育ちました。今から30年ほど前、私が中学生の頃の話になりますが、当時の東京には、バブル崩壊のあおりを受けて路上生活を余儀なくされた方が大勢おられました。今と比べると人権意識も低く、福祉的な支援も受けにくかった時代。そうした社会状況の中で自殺者は急増し、大きな社会問題になっていました。

父はそのような時代に、「住むところのない方、ご相談ください」と書かれたチラシを配ってまわり、教会で受け入れ、母が生活のお世話取りをするようになりました。教会の土地面積は56坪で、それほど大きくない建物ですが、多い時には家族以外に30人から35人ぐらいの方が身を寄せていました。

中学二年生の頃、当時食べ盛りだった私は、人が増えるたびに自分のご飯のおかずが減ることにイライラし、会長である父を責め、「なんで他人と一緒に暮らさなきゃいけないんだ!他人なんだから放っておけばいいじゃないか」と言い放ったことがあります。すると父は穏やかに、「他人じゃない。きょうだいなんだよ。不幸になっていい人なんていないんだよ」と諭してくれました。

その後、私は地元を離れ、奈良県にある天理高校、天理大学へ進学したので、両親がどのような思いでこの活動を続けていたのかはあまりよく知りませんが、この時の父の言葉が今も心に残っています。

そんな両親の影響で、大学卒業後、様々な事情で行き詰った方々を、当時青年づとめをしていた日本橋大教会でお預かりするようになり、その三年後に教会長に就任してからは、自教会で共に暮らすようになりました。今ではそうした暮らしが私の生きがいになっています。

私は、教会で一緒に暮らす方々とは、たすけ合って生きられる関係でありたいと思っています。そのために毎日一緒におつとめをつとめ、一緒にご飯を食べます。また、うちの教会で実施している「こども食堂」や、高齢者宅でのお手伝いなど、ボランティア活動にも参加してもらっています。

そうして適度に一緒に過ごす時間を持つことで、相手に対する情が芽生えてきます。すると何か問題が起きた時にも、何だか放っておけないという感情が自然に湧いてくるのです。

少し話は変わりますが、一時期、若い人の間で「無敵の人」という言葉が流行したことがありました。お金もない、頼れる家族もいない、友達もいない。そのような人は失うものがないから、凶悪な犯罪をためらいなく引き起こす。そういう意味で「無敵の人」というレッテルを張り、社会から排除しようとする。そのような流れがありました。

うちの教会で一緒に暮らすようになった方々は、お金もない、頼れる家族もいない、そんな方ばかりですが、では「無敵の人」なのかといえば、そんなことはありません。それぞれに、本人の責任がすべてとは言えないような困難を抱えて行き詰ってしまい、頑張りたいけれど頑張れない状況の中で、今は誰かの支えを必要としているのです。

相手の存在を不安に感じ、「無敵の人」というレッテルを張り、排除しようとしたり、いなかったことにしてしまうのは、その人のことをよく知らないからだと思います。だからこそ色んな人に出会い、一緒に時間を過ごしてみることが大切なのだと感じています。

天理教の原典、「おふでさき」では、

 

  せかいぢういちれつわみなきよたいや
  たにんとゆうわさらにないぞや (十三43

 

と教えられています。また、

 

  このさきハせかいぢうハ一れつに
  よろづたがいにたすけするなら (十二93

  
  月日にもその心をばうけとりて
  どんなたすけもするとをもゑよ (十二94)

 

とも仰せになります。

世界中の人間はみんな神様の子供で、お互いはきょうだいであり、対等な関係なのだということ。そして、差別が良くないことはもちろん、お互いを尊重し合い、たすけ合って生きることを神様は喜んでくださり、不思議なたすけを与えてくださるのだと教えられています。

自分勝手で、ついつい我が身可愛いという心が先立つ私ですが、教会で共に生活をする方と、たすけ合って生きていく関係を築けるよう、こども食堂や地域のボランティア活動など、一緒に時間を過ごせる場を大切にしていきたいと、日々考えているところです。

 


 

理ぜめの世界

 

この世は、親神の身体であって、世界は、その隅々にいたるまで、親神の恵に充ちている。そして、その恵は、或は、これを火・水・風に現して、目のあたりに示し、又、眼にこそ見えぬが、厳然たる天理として、この世を守護されている。即ち、有りとあらゆるものの生命の源であり、一切現象の元である。

実に、この世は、理ぜめの世界であって、一分のすきもなく、いささかの遺漏もない。天地自然の間に行われる法則といわず、人間社会における秩序といわず、悉く、奇しくも妙なる親神の守護ならぬはない。

『天理教教典』には、親神様のご守護についてこのように記されています。

この世界は神の身体である、と教えられることからすれば、ご守護は親神様のお働きの「すがた」ということになるでしょう。あるいは、親神様のご意志の現れであるとも言えます。

そう考えれば、この世界の営みすべてが、親神様の恵みであることも、また、時として出合う厳しい状況が、可愛い子供をたすけたいばかりの慈愛の警告であることも理解できます。

しかもそのご守護は、いついかなる時も整然と筋道立った展開を見せられるのです。

お言葉に、「理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く」(M25・1・13)とあるように、厳然と、一分のすきもない天の理を諭されています。

親神様の見抜き見通しの眼を前にしては、私たちの隠れる場所はどこにもありません。日頃の言葉や行いはもちろん、心の中でひそかに思うことすら見通され、思召しのままに守護されているのです。このような親神様の眼差しを前に、かしこまり慎むことはもちろん大切ですが、ただそれだけでは、ご守護を存分に味わうことはできません。むしろ自ら進んで、その温かい懐に身をゆだねて通ってこそ、深い親心がより身近に感じられてくるのです。

 

  なんでもこれからひとすぢに
  かみにもたれてゆきまする (三下り目 7ッ)

 

  めへ/\にハがみしやんハいらんもの
  神がそれ/\みわけするぞや (五 4 )

 

親神様は、寸分の違いもなく公平に、一れつ人間をお見守りくださっているのです。

(終)

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