(天理教の時間)
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第1279回2024年4月26日配信

欲しい愛情のかたち

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1215回

二人でおぢばがえり

義父との関係がギクシャクしているというママ。心をスッキリしてもらおうと、おぢばの参拝へお誘いした。

二人でおぢばがえり

奈良県在住  坂口 優子

 

私にはここ一年ほど、毎月とても楽しみにしている日があります。それは、今では私の最高の友達の一人になってくれたある女性と、奈良県天理市にある、天理教の神殿へ参拝に行く日です。

ことの始まりはおととしの夏。その日、彼女は普段通り、英語教室のレッスンに娘さんを連れてきました。

「こんにちは。暑くなってきましたね~」などと世間話をしていると、突然娘さんが、「痛っ!ママ、とげ刺さった~!」と泣き叫び、かかとを抱えて横になってしまいました。

看護師をしている彼女は、「え?!ちょっと見せてみ」と、素早い対応で娘さんをうつ伏せにして患部を探しています。私は慌てて針や毛抜きを探して彼女に渡し、汗だくで泣き叫んでいる娘さんに、「もう少し頑張ろ!」と声をかけ、涙を拭いたり手を握ったりしていました。

するとそこへ、「こんにちは~」と顔を見せたのは、彼女の義理のお父さん。別のお孫さんをレッスンに連れてきたのです。

汗だくでとげを抜こうとする彼女と、泣きわめく孫の姿に「どないしたんや?」と心配な様子のお義父さん。レッスンの時間になり、私がその場を離れると、彼女が作業をし易いように、「これでええか?」と、手元に携帯電話のライトを当てながら、泣き叫ぶ孫にも優しく声を掛けていました。

私は遠目で見ながら、家族の仲睦まじい様子に心癒されていたのですが、どうしたことか、とげが抜ける気配はありません。結局、レッスンが終わる時間になってもとげは抜けず、お義父さんの車で病院へ行くことになりました。

「お騒がせしました。病院で抜いてもらいます」と言う彼女に、私が「ごめんなさい。教会で痛い思いをさせてしまって」とお詫びをすると、「いいえ、私が悪いんです」とポツリ。

確かに天理教を信仰する私たちは、何か自分にとって不都合なことが起こると、日頃の行いを反省したり、その出来事に込められた神様の思いを求める習慣があるので、このような態度も珍しくはないのですが、彼女は天理教の信者ではありません。

「そんなことないよ」と、自分を責める彼女に言うと、「いや、最近とげとげしてるんです、私」と、何か思い当たる節があるようです。「またゆっくりお話しさせてください」と明るく笑い、彼女は病院へ出掛けていきました。

翌週、元気に娘さんをレッスンへ連れてきた彼女。「先週はすみませんでした」とのお詫びに続いて、「じいじと私、ギクシャクしてる感じやったでしょ?」と話し始めました。全くそんな風には見えず、二人は息がぴったりで、義理の関係なのにとても仲がいいんだなあと思っていたので、ビックリしました。

「見てください。おかげで肌の調子も悪くてこんな感じです」とマスクを下げ、荒れた肌を見せて苦笑い。そんな彼女に「今度、一緒に天理へお参りに行きませんか?」とお誘いしました。

天理には、神様がこの世界をお創めくだされた時に、人間を宿し込まれた〝ぢば〟という地点があります。〝ぢば〟は、全人類のふるさとです。

数年前、私は心の病を患っていました。その時「機械でも何でも、故障したら製造元へ持って行って直してもらうやろ? それと同じで、人間も故障したら製造元の神様の所へ行って直してもらえるんやで」と聞かせてもらいました。

それ以来、私は自分が故障しているなと感じたら神様の元へ行き、その都度、心を立て直して頂きました。そんな経験から、彼女の故障もきっと直してくださると思い、お誘いしたところ、「嬉しいです」と即答を頂き、月に一度の二人でのおぢばがえりが始まりました。

うちの教会から天理までは車で30分。車内では、お互い一か月間の大変だったことを語り合います。その大半が親の話で、時にはとげとげした感じになることも。彼女は義理の両親とはお隣同士で暮らしていて、私は同居なので、その大変さはよくわかります。

365日色んな日があり、きれい事だけでは済みません。お互い悪気はないのに誤解し合ったり、相手のためを思って取った行動が、迷惑がられることもしばしば。何気ない言葉に傷ついたり、くだらない理由で腹を立ててしまったことも、二人で話せば「あるある!」と一緒に笑い合えるのです。

こうして私たちは、おしゃべりで、ため込んでしまった心のほこりを自覚し、神殿でおつとめをします。神様と向き合うと、心のもやが全て取り払われたようにスッキリするのです。

心がスッキリした後は、長い長い回廊を歩きながらまた話しが始まります。往きの車では「大変だねえ」と言っていたのが、参拝が済んだ後には、「でも、親のおかげだよねえ」という話に行きつくのですから、不思議です。

彼女とのおぢばがえりが始まって一年が過ぎました。先日、私の携帯に彼女から素敵な写真が送られてきました。雲一つない青空のもと、おぢばの神殿をバックに、義理のお父さんと仲良く映るツーショット写真です。

その日は、およそ10キロの道のりを、二人で自転車でお参りに行ったそうで、お義父さんも本当に嬉しそうな笑顔。神様もどんなに喜ばれていることでしょう。

親との関係で悩んだり腹を立ててしまうのは、仲良くしたい、親孝行したいという気持ちが強いからこそなのだと、彼女が私に教えてくれました。そして、その気持ちは私にもちゃんとある。だからこそ、その思いを神様が汲んでくださり、「大変」という字の通りの大きく変われるチャンスを、私たちに与え続けてくださるのかも知れませんね。

 


 

生きる義務

 

昔々、栄華を誇る王が大勢の学者を集め、人類の歴史を書くよう命じました。問題が問題なだけに、完成までには膨大な時間がかかり、そのうち王は病に伏せ、生命が尽きようとしていました。

王は病床から学者たちを呼び寄せ、一口で人類の歴史を語るよう促しました。学者は答えました。「人間は生まれ、苦しみ、そして、死にました」。王は一言、「分かった」と言って、永遠の眠りにつきました。

考えてみれば、人間のすることは、生まれること、苦労して働くこと、そして死ぬこと、この三つしかないようです。あとは付録であり、バリエーションに過ぎません。この三つを権利という観点から考えれば、人間には、生きる権利、働く権利、死ぬ権利があるということになります。

ただ、権利はあれど、ままならないのが人生です。一般に私たちが見聞きする人の「死」の風景にしても、本当は死にたくないが、病や事故などによって、やむを得ず死ぬ。これが大方の人の最期でしょう。また、生についても、大概の人は生きていくのに精いっぱいで、自分の思い描く理想の人生にはほど遠いのではないでしょうか。

天理教教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」に、

  たいないゑやどしこむのも月日なり
  むまれだすのも月日せわどり(六 131)

とあるように、人間の誕生におけるご守護は、すべて神様によるものであると教えられます。

神様のご守護があればこそ、私たちは生を享け、いまもこうして生かされている。さらに、かしもの・かりものの教え、すなわち、この身体は神様からのかりもので、心だけが自分のものである、という教えからするなら、私たちには生きる権利があるというより、むしろ生きる「義務」があると考えるべきでしょう。

生きる権利という主張は、ややもすると、自分本位の気ままな生き方に流れてゆきます。これに対し、生きる義務があるという自覚は、人生の目指すべき方向性を決定づけます。すなわち、人間として生まれてきた以上は、神様の望まれる陽気ぐらしを目指して生きていくこと。こう心が定まって初めて、理想の人生へ近づく展望が開けてくるのです。

(終)

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