(天理教の時間)
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第1312回2024年12月13日配信

お産のふりかえり

末吉喜恵先生
末吉 喜恵

文:末吉 喜恵

第1196回

娘と共に「明るくいそいそと」(『日々陽気ぐらし』より)

障害のある娘と共に歩んできた22年間。苦労の多い生活の中、娘の人生は果たして幸せなのだろうかと考える。

娘と共に「明るくいそいそと」

栗田 道徳

 

毎晩10時が娘の就寝の時間である。親父は、娘を〝お姫様抱っこ〟して抱え上げる。妻は娘のベッドメイキング。今年22歳の娘は身体障碍者である。共に生きた22年は苦労の多いものであったが、決して不幸な人生ではなかった。

娘は平成10年2月に誕生した。生まれてすぐ、産婦人科へ行った帰り道に、娘の成長や、いずれ迎える幸せな未来を想像してうれしくなった。それだけでなく、芦屋雁之助の『娘よ』を口ずさみながら、いつか嫁に行くのかと思うだけで悲しくなってしまうほどの幸せを感じていた。

しかし一週間後、溶連菌に感染していたことが分かり、それが原因で「脳髄膜炎」を発症した。親父にとって、それはまさに青天の霹靂であった。夢心地からどん底へ落ち込んでいき、病状は進んで「水頭症」となる。二度の脳の手術によって一命は取り留めたが、三か月後、退院するころには目が見えなくなっていた。

その後、「てんかん」の症状が現れる。最初は夜昼を問わず泣く子の姿に、普通の子どもと同じようにお腹がすいているのだとミルクを飲ませるが、すぐに吐く。発作で泣いていることが分からなかった。四か月を過ぎるころには、水も喉を越さなくなっていった。

そして、てんかんの治療のため入院した際には「一生、車椅子での生活になるでしょう」と。思いもよらない娘の状態を知らされるたびに、「そんなことはないだろう」と思うが、それも空しいことであった。そんななか、最終的には、「進行している小脳の水頭症の影響で脳幹が圧迫され、いつ呼吸が止まってもおかしくない。二歳くらいが山場です」と言われ、覚悟をしつつ日々を過ごした。

その後、風をひくたびに「肺炎」となり、常に吸引が必要な状態になった。年に三回以上は入院した。夜中に何度、病院へ走っただろうか。そんな入院の繰り返しの原因には、親父のミスも度々あった。妻が所用などで数日、家を空けると、決まって体調を崩す。

妻は、娘が苦しそうに喉をゴロゴロさせると吸引したり、体位を変えたりして、うまく体調を管理している。痰を取るための胸のツボを分かっているので、うまく押さえながら咳をさせ、痰を吸引している。そのテクニックは看護師以上かもしれない。

しかし親父は、娘が喉をゴロゴロさせて苦しそうだと、笑わせて落ち着かせようとする。ゴロゴロも笑うと治まるだろうと勘違いしていた。親父は娘の笑いのツボは心得ていたが、何の役にも立たない。だから体調を崩していた。妻はそれに気づいてから、外泊は一泊以上しなくなった。

あるとき、担当の先生から「お父さんに似て首が長いから、吸引しても痰が取りきれないのよね」と言われたことがある。確かに、キリンや馬系のあだ名をつけられていた親父にとっては否定できないものがあるが、「この先生、本人を目の前に本気で言っているのか」と苦笑いしながらも、「もしや親父は遺伝子レベルで娘を苦しめているのか」と複雑な心境になったこともある。

一方で娘は、不思議なことにほとんど泣かない。先生から「苦しいはずなのに、よく笑ってくれるね」と言われたことがある。娘は微笑むことや声を出して笑うことが多く、同じような障碍を持つ人には珍しく表情豊かである。これは「親父の遺伝子レベルのいいところだ」と自負している。

娘の笑いについて、忘れられないことがある。一歳になったばかりのころ、布団に寝かせていた娘に頬ずりをした。そのとき、それまで微笑むだけだった娘が、生まれて初めて声を出して笑ったのである。

赤ん坊が笑うのは当たり前のことだが、私たち夫婦には、それは奇跡に近い不思議なことだった。二人で涙し、「こんなふうに幸せを感じられる人は、世界にそうはいないだろう」と、〝世界レベル〟で喜びを味わった。子どもが笑い声を聞かせてくれる奇跡に。

そんな喜びや悲しみをいくつも経験しながら、娘の人生は果たして幸せなのだろうかと考える。人は自分を取り囲む人々との関係のなかで人生を歩む。誰かと喜びや悲しみを共有し、さまざまな心づかいを経験することによって人生の幸、不幸を味わうものだろう。

もしも、娘の存在を通して家族が泣き泣き暮らしていたら、現状を疎んじていたら、いがみ合って暮らしていたら、たとえ娘が健常者であったとしても幸せを味わうことはできなかっただろう。逆に、私たち家族が娘と共に幸せな人生を築くことができたなら、娘の人生は幸せな人生と言えるのではないか。

また、苦労のない人生が幸せならば、娘の人生も私たち家族の人生も不幸である。しかし、不自由や苦労の多い生活のなかにも、たくさんの喜びと笑顔のある人生を送ってきたのである。

天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、難儀不自由、御苦労の道中を「明るくいそいそと」歩まれ、陽気ぐらしのひながたをお示しくださった。

人生に苦労はあって当たり前だが、厳しい人生のなかに喜びを見いだし、「明るくいそいそと」通れる心に成人することで、人生に陽気が漲るのではないか。陽気ぐらしの境地は、どこかに用意されているものではなく、苦労して手にするものであり、苦労して成人した心に味わえるものなのだと信じている。

親神様は、人間が陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたいと思召され、人間をお造りになったと教えられている。はてさて、こんな親父のドタバタ陽気ぐらし劇場を見て、親神様は共に楽しんでくださっているのだろうか。

22歳の娘と共に生きた人生を振り返り、平凡な親父が「明るくいそいそと」陽気ぐらしを目標に歩んでいる今日このごろである。

 


 

おさしづ春秋『種は正直』

 

  善き種蒔いたら善き実がのる。(M36・3・30)

 

農作物の種には、それぞれ蒔く旬というものがあるけれども、たとえ蒔くべき旬に蒔かずにいても、その季節は何事もなかったかのように終わり、次の季節へと移っていく。むろん実りも収穫もありはしない。旬とは、そういうものである。

若いころ年寄りからよく、種は正直と聞かされた。きゅうりの種を蒔けば、きゅうりの実がなる。ナスの種を蒔けば、ナスの実がなる。きゅうりの種を蒔いて、ナスの実がなることはない。種は正直や。

たまに、「私は生涯、一筋にきゅうりの種蒔きをしてきた。どんな中も一心にきゅうりの種を蒔いてきた。ところが、どうしたことかナスの実がなった。何たること。いったい私の通ってきた道はなんだったのだ」と、不足をする人がいる。

その人は生涯きゅうりの種を蒔いてきたつもりでいるが、じつはナスの種を蒔いてきたのである。種は正直や、と。

また、「人は落ち目になりたるとき、なお落ちる種を蒔くからどうもならん」とも聞く。病気をしたり仕事や人間関係などでうまく行かなかったりした時、駄目な時ほど、とかく人は不平不満の種を蒔いてしまうもので、蒔いた種からはさらに不都合な芽が吹く。

落ち目になったときにこそ、辛いだろうけれども、その中から善き心遣い、善き行いという種蒔きをしておかないと、運命を好転させるような善き事が芽生えてきはしないのである。

春さきに蒔いた朝顔の棚が、やっといま、じりじりと窓に照りつける残暑の日ざしを和らげている。

(終)

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