(天理教の時間)
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第1279回2024年4月26日配信

欲しい愛情のかたち

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1119回

突然のコロナ禍で

コロナの感染者に対する誹謗中傷が後を絶たない。そんな中、治癒した人をあたたかく迎え入れる村もあるという。

突然のコロナ禍で

             広島県在住  岡本 真季

 

私の子供たちは「バンビ」という映画が大好きです。その映画には、子ウサギのとんすけというキャラクターが登場します。とんすけは産まれたばかりで上手に歩けないバンビをからかいます。すると、とんすけのお母さんが「優しいことが言えないなら、何も言っちゃいけないよ」と、とんすけをたしなめます。

私は子育ての中で、何度となくこのセリフを子供たちに言い伝えました。子供たちには、人を傷つけるような言動をとってほしくないと思ったからです。

私が利用するSNSでも、他人への誹謗中傷や、批判する言葉が氾濫しています。ある企業の公式ツイッターでは、男性社員が「嫁」というワードを使用したことで大炎上。その男性社員や会社を批判するコメントであふれ返り、その結果、会社が公式に謝罪しなければならなくなりました。

確かに「嫁」という漢字が、女性は家に居るものだと連想させ、女性軽視であり、時代錯誤だという意見があるようです。ただ、この話題を取り上げたワイドショーのアンケートでは、七割以上の女性が、嫁という呼び方でも「気にならない」と答えています。

SNSの特徴として、批判するコメントが一つ出ると、大勢がそれに同調してしまう傾向があるように思います。

先日も「幼稚園の園児たちが、風船に花の種とメッセージをつけて飛ばしたら、120キロも離れた場所からお菓子のお返しが来た」という、何ともほっこりしたニュースを見つけました。もっと詳しく読みたいな、と思ったのですが、コメント欄に「その風船は土にかえるタイプですか?」「土にかえるタイプだとしても、時間がかかるのでは?」「魚や動物が食べたら死んでしまうのでは?」などの書き込みが目につきました。

言っていることは間違っていないけれど、何とも窮屈な世の中になってしまったなあと思い、それ以上読むのをやめてしまいました。

特に現在は、新型コロナのクラスターが発生した所に対して、多くの批判が寄せられます。それを見たたくさんの人たちから、さらに苦情電話が殺到します。驚くことに、この苦情の電話、そのほとんどが県外の遠く離れた人たちからなのだそうです。

そんな他人を批判したり、攻撃する人がいる中、素敵な話を聞きました。

ある村の人がコロナウイルスに感染し、入院していました。退院の日、その人はこれからどうしたらいいのか、不安な気持ちのまま家に帰りました。家に着き、タクシーを降りると、そこにはSNSで退院することを知った村人たちが大勢集まっていました。そして、それぞれねぎらいのメッセージが書かれた旗を振りながら、「おかえり」「よかったね」「困ったことがあったら言ってよ」と、喜んで迎えてくれたそうです。その人はどんなに嬉しかったことでしょうか。

天理教では、世界中の人々は皆「いちれつきょうだい」であると教えられています。私はこの話を聞いて、まさにこの村は「いちれつきょうだい」だと思いました。この村の人たちのように、感染が治癒した人を、旗を振って迎え入れることが出来てこそ人間ではないでしょうか。なぜなら私たち人間は、一人ひとりはもろくて弱い存在でも、たすけ合うことが得意だからこそ、絶滅することなくこれまで存続してきたと思うからです。

SNSは、誰でも気軽に手を伸ばすことができ、お互いの顔が見えない分、遠慮なく自分の意見が言える便利さがあります。しかし、それをいいことに誰かを傷つけてしまってはいけません。

あなたが傷つけてしまったその人は、今あなたのために、寝る間も惜しんでコロナウイルスの抗体を研究している人かもしれません。知っている人も、知らない人も、皆きょうだいなのです。共に喜び、共に励まし合い、「いいね」してみてはいかがでしょう。

子供たちには、とんすけのお母さんが言った「優しさ」を心がけながら、上手にSNSと付き合ってほしいと思います。

 


 

『おやさまの情景』

 

たすけを求め寄り来る人々を、常に温かい親心をもって導かれた天理教教祖・中山みき様「おやさま」。その尊い道すがらの中には数々の逸話があり、今も語り継がれています。その逸話から十二篇を厳選、イラストを添えて「4コマ絵本」の形で一冊にまとめた、『おやさまの情景』。今日はその本から一篇をご紹介します。

             ※

子供が親のために―神様がお受け取りくださる真実の心―

 

元治元年、一八六四年ごろのこと。十五歳の桝井伊三郎(ますい・いさぶろう)少年は、夜の明けるのを待ちかねて、およそ五・五キロの道をお屋敷へ急ぎました。病気で危篤の母キクさんのことを、教祖にお願いするためでした。

「どうかお救けくださいませ」

すると教祖は、こう仰せになりました。

「せっかくやけれども、身上救からんで」

ほかならぬ教祖のお言葉です。伊三郎さんは、家に戻ることにしました。

しかし、苦しむ母の姿に、「どうでも救けてもらいたい」との思いで胸がいっぱいになり、再び、お屋敷へ行きました。けれども、教祖は、「気の毒やけれども、救からん」と、重ねて仰せになりました。

「ああ、やむをえない」

伊三郎さんは、その場では得心したものの、家に戻ると、じっとしていられません。またトボトボと歩いて、お屋敷に着いたときには、夜になっていました。

「ならん中でございましょうが、何んとかお救けいただきとうございます」

すると教祖は、

「救からんものを、なんでもと言うて、子供が、親のために運ぶ心、これ真実やがな。真実なら神が受け取る」と仰せくださいました。

こうしてキクさんは命をたすけていただき、八十八歳まで長生きしました。

           ※

人間の親である親神様のお心は、子供をたすけてやりたい思いでいっぱいです。けれども、たすけていただくには、親神様のお心にかなう真実の心が大切なのです。キクさんは、教祖のことを本当の親のようにお慕いし、足しげくお屋敷に通っていました。伊三郎さんは、その姿を見て〝親を思う心〟を自然に身につけていったのでしょう。

日ごろから親孝行を心がけ、周りの人も思いやる。そんな姿を子供の心に映したいものです。

(終)

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