(天理教の時間)
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第1276回2024年4月5日配信

人生最大のラッキー

目黒和加子先生
目黒 和加子

文:目黒 和加子

第1220回

伝えたいこと

人の心に寄り添うとは、何と難しいことだろう…。その女性は娘さんを突然亡くし、失意のどん底にあった。

伝えたいこと

 神奈川県在住  一瀨谷津子

 

四歳になる孫が、「ばあばあ、誕生日何が欲しい?」と聞いてくれました。「そうねえ、何が欲しいかなあ…」すぐには思いつきません。今の私はこうして子や孫たちが顔を見せに来てくれて、楽しそうな声があっちからもこっちからも聞こえてくるだけで十分幸せで、それ以上求めるものがないのです。

先日、山の上にある病院に行きました。二年前に右肺の三分の一を切除し、それからというもの、季節の変わり目を迎えるたびに体調を崩し、病院との縁が切れなくなりました。どんな病気であれ、体調が悪くなることは不安を呼ぶものだということを、しみじみ感じています。

バスを待ちながら、空一面に広がる雲の流れに心を奪われました。「何て美しい風景なんだろう」。人間の世界は色んな出来事で大忙しですが、風も空も太陽も、自然の恵みは何一つ変わることはありません。

冷たい風を受けながら、ある女性のことを思い出しました。その方は60代で、歩くのもやっとという状態の時に、地域の民生委員さんに勧められ、教会を訪ねて来られました。

寒い冬の日でした。彼女は身体の不調に加え、娘さんを突然亡くしたばかりで失意のどん底にありました。何と声を掛ければいいのか、何をどうすればいいのか、その頃の私には分かりませんでした。お弁当を作って届けたり、おしゃべりをしに伺ったりと思いつくことを続けてみましたが、心は閉ざされたままでした。

その後、引っ越しをした彼女に、私は一方通行の手紙を書き続けました。そして一年半が過ぎた頃、やっと心の扉が開き始め、教会へ足が向くようになりました。

ところが、人間というのは勝手なものです。出会いから三年、「元気になって欲しい」とあれだけ願っていた私の心は疲れていました。毎日かかってくる電話は、同じ話の繰り返し。親身になって聞けば聞くほど、全身に重い荷物がのしかかってきます。そんな事から、知らず知らずのうちに逃げたくなっていました。

これではいけない、元気になって欲しいと願っていた初心に帰らなければ、と気づいた矢先、突然別れの日を迎えました。

振り返れば、後悔することばかりです。自分はたすけていたつもりでも、実は彼女のことを何も分かっていなかった、寄り添ったつもりになっていただけだと。

彼女はよく、「こんにちは」と元気よく尋ねていく私に、「あんたの元気が私には痛いのよ」と言っていました。そんな何気ないひと言にも傷ついていた私でしたが、彼女はこう書き残してくれていたのです。

「きてうれし 明るい笑顔 まちわびる」

私に残ったのは、「ごめんなさい」という心だけでした。彼女は私の笑顔を待ってくれていたんだ。なら、もっともっと、明るさを与えてあげたかった。

誰もが違った境遇で生きているので、その身にならなければ分からないことばかり。人の心に寄り添うとは、何と難しいことなのだろう…。

けれど、そんな中でも私は幸せを感じながら生きています。自分が病んで身体に不安を抱える辛さを知って、ようやく気づきました。大空の下にある、当たり前に過ぎる毎日がいかに有り難いことなのかと。

私の机の前に、こう書き記したメモがあります。

「この信仰は、心通りの守護です。心を倒していては守護はありません。守護を頂く心になることが大切です」

今、ここにこうして生きている。家族と離れて一人かもしれない、病気で苦しんでいるかもしれない、けれど生きている。当たり前に迎える変わらない毎日。その中で、与えられた命を精一杯生きていくうちに、幸せの小さな種が見つかるのかも知れない。年を重ね、そう思うようになりました。

「ばあばあ」と差し出してくれる小さな手に、目に見えない幸せの種をいっぱい手渡してあげられる自分でありたいと思います。

いつの時も私たちは守られ、生かされて生きているのだと伝えたい。そして、この守りの中にこそ確かなものがあるのだということ、それこそが私の心の支えなのだと。

 


 

見抜き見通し

 

月夜の晩に、貧しい男が子どもを背負って道を歩いていると、あるお屋敷の塀越しに、柿の木の枝が伸びて実がなっていた。男が、ひもじい思いをしている子どもに食べさせてやろうと、手を伸ばして柿の実を取ろうとした。すると背中の子どもが、「とうちゃん、お月様が見ているよ」。男はハッとしてその手を引っ込め、柿を盗まずに済んだのだとか…。

この話、もし子どもが「とうちゃん、誰かが見ているよ」と言っていたら、周りを見回して「誰も見ていないから大丈夫だ」と人間心が顔を出したかもしれませんが、「お月様が見ている」となると、隠れようがありません。まったく、子どもの一言によって父親は救われたのでした。

天理教教祖・中山みき様「おやさま」を巡って、次のような逸話が残されています。

 

ある年の暮れに、一人の信者さんが立派な重箱にきれいな小餅を入れて、「これを教祖にお上げして下さい」と持ってきました。側の者がさっそく教祖にお目にかけると、いつになく「ああ、そうかえ」と仰せられただけで、ご満足の様子はありませんでした。

 それから数日して、別の信者さんが、「これを、教祖にお上げして頂きとうございます」と言って、粗末な風呂敷包みを出しました。中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡餅が入っていました。また側の者がお目にかけると、今度は「直ぐに、親神様にお供えしておくれ」と、非常にご満足の様子でした。

これは後で分かったことですが、先の人はかなり裕福な家の人で、正月についたお餅が余ったので、それを持ってきたに過ぎず、後の人は貧しい家の人でしたが、やっとのことで正月のお餅をつくことが出来たので、「これも、親神様のお蔭だ。何は措いてもお初を」と、そのつき立てのところを持って来たのです。教祖には、二人の人の心が、ちゃんとお分かりになっていたのでした。

こういう例はたくさんあったようで、その後、多くの信者さんが珍しいお供え物を持ってきた時にも、教祖は、品物よりも、その人の真心をお喜びになるのが常でした。そして、中に驕り高ぶったこうまんの心で持ってきたようなものがあると、たとえそれをお召し上がりになっても、「要らんのに無理に食べた時のように、一寸も味がない」と仰せられました。(教祖伝逸話篇 7「真心の御供」)

 

私たち人間の世界では、誰かが悪いことをしても、その悪事がすべて露わになり、きちんと法の裁きを受けるとは限りません。逆に、どんなに善い行いを重ねても、それがすべて世の人々の称賛の的になるとも限りません。悪が栄え、善が陰に追いやられるようなことも、人間社会では往々にして見られることです。

しかし、私たちのどのような行いや心遣いも、神様には全て通じていて、善悪共に見分けてくださる。そう信じてこそ、安心して人生を送れるのではないでしょうか。この逸話を深く味わい、神様のお喜びくださる心尽くしで、日々を過ごしたいものです。

(終)

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