(天理教の時間)
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第1275回2024年3月29日配信

年末に続いた子供の風邪

岡先生(掲載)
岡 定紀

文:岡 定紀

第1213回

トマトの皮

母を介護していた日々、自分の色んな心を発見した。母を大切に思う気持ちがありながらも、優しさが足りなかった…。

トマトの皮

 神奈川県在住  一瀨 谷津子

 

先日、久しぶりにある教会をたずねました。忙しそうな奥さんに、「元気にしてる?」と懐かしく声をかけたところ、「今は親の介護をしています」と返事が返ってきました。続けて彼女から、「奥さんも介護をされてましたよね。何年ぐらいでしたか?」と聞かれ、私は晩年の母のことを思い返しました。

母が亡くなってから二年余り。随分と長く感じた介護の日々が、終わってみれば「たった三年」という一言で表現されていることに驚きます。

当初あまり大変だと思っていなかった介護というものが、私の中で雪だるま式にだんだん大きくなっていきました。周りの目を意識しながら、大変さに気づかれないように取り繕ったり、時にはやり場のない怒りが込み上げてきたり、もちろん前提には母を大切に想う気持ちがありながらも、色んな心の中にいた自分を思い出しました。

数年前に「がんばらない介護」という本が人気を呼びました。「がんばらない」ことは大切だけど、これはかなり難しいことだと思いました。多かれ少なかれみんな頑張っていることは事実で、頑張らないとやっていけない現実が目の前にあれば、人は頑張ってしまうものだからです。

そんな中で、自分の正直な心が姿を現します。こんなつまらないことが、今も一番心に残っています。

母はトマトを食べる時、必ず皮を残していました。いつもいつも残していました。いつも残すのだから皮をむいて出せばいいのに、私はトマトの皮をむきませんでした。これが私の心でした。ささやかな抵抗でした。微妙な、嫌な心でした。

今もトマトを食べる度に母を思い出します。私も年を取り、近頃トマトの皮の食べにくさに気づくようになりました。優しさってこんなささいなことなんだ、特別なことじゃない、ほんのひと手間かけることなんだと、今さらのように気づきました。優しさが足りなかった。トマトを食べる度に、反省しながら母のことを思います。

介護はある日突然始まり、突然終わりを迎えます。見えないストレスがあることに気づき、自分の厄介な心にも出会いました。やらなければならないのは分かっていても、母に添いきれない、優しくない自分にも出会いました。

いつまで続くのかと思いながら、そのうち日を数えなくなるほど淡々と毎日が過ぎていきました。たった三年。介護は必ず終わる日が来ます。

母は元気な頃、よく同じ年代のお友達と「嫁の世話にだけはなりたくない」という話をして、みんなで大笑いしていました。半分本心で、半分冗談のようなその話を、私はお茶のお世話をしながらそばで聞いていました。この頃一緒に笑っていたお友達は皆さん亡くなりましたが、あのお茶の風景を懐かしく思い出すと共に、自分もまた年を重ねていることに今さらながら気づかされます。

脳梗塞で始まった介護は、認知症へと続きました。一通りの大変さを味わいながらも、その中にあるたくさんのご守護にも気づきました。嫁の世話になっていると分からなくなって、プライドが保たれたのもその一つです。

また、子どもたちが、自分の親がその親を介護する姿を見ていることも知りました。母を見送った日、「お母さん、お疲れさま」という子どもたちの言葉に涙があふれました。私はこの言葉を、亡くなった母からの私へのプレゼントだと受け止めました。

終わってみて気づくことが沢山あります。介護の最中は大変な中にあるけれど、いのちといのちをバトンでつないでゆくように、私の心を子どもたちが受け取り、次の世代へとつないでゆく。はじめは介護という言葉に右往左往していましたが、私にとってとても大切な心の財産になりました。

トマトの皮は、私の優しさのバロメーターです。母が遺してくれた、大切な道標になりました。母との最期の三年間は、大変な日々が、いつか宝物だったと気づく時が必ずあることを教えてくれたのです。

 


 

生かされて生きている

 

現代社会において、私たち人間は、ややもすると、ものの豊かさを求めるあまり、いまここに元気に生きていることの有り難さを忘れてしまいがちです。目先の事柄に心をとらわれて、自らの本質的なあり方を見失っているのです。

そうした心のあり方を、天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、次のように仰せくだされています。

 

  このよふハにぎハしくらしいるけれど
  もとをしりたるものハないので(「おふでさき」三 92)

  にんけんの心とゆうハあざのふて
  みへたる事をばかりゆうなり(三 115)

 

人間の心は「あざない」、浅はかなので、目に見えてくることばかりを求めている。皆、ものに恵まれた「賑わしい暮らし」をしているが、人間の「もと」、本質的なあり方を知っているものはいない。そうお諭しくだされています。

自分の力で動かそうとしなくても、心臓は絶えず動き、体温はうまく調節されています。身体のこのような微妙な働きは、ふだん元気な時は気にも留めませんが、それは自覚できないほどの精妙さでコントロールされているが故なのです。

 

  にんけんハみな/\神のかしものや
  神のぢうよふこれをしらんか (三 126)

 

私たち人間は、神様から身体をお借りし、自由自在の守護によって生かされて生きている。これが天理教の基本的な人間観です。この「生かされて生きている」ということが、人間の「あざない」浅はかな心にはなかなか映らない。心が曇っていると、心に映る世界も曇ってしまうからです。

人生において、本来の澄んだ心を取り戻すための糸口になるのは、常識や合理的思考によっては、どうしても対処できないような困難に出合い、行き詰まった時です。それは重い病気であったり、これを天理教では身上と言います、あるいは生活の上に現れる深刻な悩みや苦しみ、これを事情と言いますが、そういうものが起きた時ではないでしょうか。

この道の信仰においては、「身上事情は道の華」と言われます。自分にとって好ましくない事が起こった時、それを喜んで受け入れるのは、実に難しいことです。しかし、身の回りに成ってくることのすべては、私たち人間をたすけたいという神様の手引きであると教えて頂きます。

 

  このよふにやまいとゆうてないほどに
  みのうちさハりみなしやんせよ (二 23)

  にち/\にみにさハりつくとくしんせ
  心ちがいを神がしらする (四 42)

 

世に言う「病気」も、決して病気などではなく、それは、神様が私たちの心得違いをお知らせくださる「陽気ぐらし」へのメッセージなのです。

こうした神様からのメッセージの意味が心の底から理解できた時、私たちは自分の知恵や力で生きているのではなく、神様のご守護によって「生かされて生きている」という、人間の本質的なあり方を実感することができるのです。

(終)

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