(天理教の時間)
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第1403回2026年9月11日配信

喜びは最高の伏線回収

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1402回

がむしゃらに、ひとすぢに

大阪の教会を拠点に、教友と共に一カ月間布教に没頭。何とか帰参者をお与え頂こうとがむしゃらに励んだのだが…。

がむしゃらに、ひとすぢに

福岡県在住  内山 真太朗

 

以前おぢばの学校に在学していた時、同級生10名とともに大阪の教会で合宿し、約一カ月間にわたって、にをいがけに歩かせて頂きました。大阪に出発する前、仲間たちと話し合い、この一か月のにをいがけで帰参者をお与え頂き、日を決めてマイクロバスでおぢばがえりを実施しようと目標を掲げ、全員で勇んで布教に歩くことを申し合わせました。

朝の通勤ラッシュの時間帯での神名流し・路傍講演に始まり、そこからそれぞれ各家庭を一軒々々戸別訪問。「こんにちはー!天理教の布教師の者ですが!」「陽気ぐらしの天理教です!」「何かお困りのことはありませんか?」と元気に声を掛けますが、いくら勢いよく言っても先方の反応は冷ややか。

「うちは結構ですから、もう来ないで下さい」「ほかの宗教を信仰してますから」「なに!天理教?いらん!帰れ!!」と、ほとんどの訪問先で断られ、怒られ、なかなかうまくいきませんでした。

勇めない日々が続きましたが、その中にも、数十軒に一軒は少しでもお話を聞いて下さったり、また病気の方にはおさづけを取り次いだりと、コツコツ歩く中に勇みの種を頂くこともあり、何とか心を倒さず通らせて頂いていました。

しかし、日が経つにつれて徐々に焦りも出始めてきました。目標である、帰参者をご守護頂くというプレッシャーからくるものです。もう少し、勢いよく。もう少し、断られても一軒々々粘って…。自分自身の気持ちを奮い立たせて戸別訪問を繰り返しましたが、うまくいきません。

他の仲間たちはポツポツと帰参者をお与え頂いたという報告もあり、余計に焦りとイライラが襲ってきました。もちろん、帰参者をお与え頂くという結果が全てではないのは分かっていましたが、だからといって諦めたら、この布教が何の意味もなくなるような気がしました。だから、「何が何でも、どうでもこうでも帰参者をお与え頂いて、一緒におぢばへ帰らせて頂きたい!」こういう思いで、とにかく真剣に、とにかくがむしゃらに一日々々最後まで諦めず必死で戸別訪問に歩きました。

毎日同じ地域を集中的に訪問し、おぢばがえりの三日前からは、現地まで行き帰り片道40分の道のりを一人で神名流しをしながら歩き、途中で休憩していた時間を割き、空き地でみかぐらうた十二下りを踊り、休憩なしで一日中戸別訪問に回らせて頂きました。しかし、なかなか結果は出ません。

そして、いよいよおぢばがえり前日。今日しかない、結果は神様のお与えだから、とにかく終わってから後悔しないように最後までやり抜こうと思い、約30棟からなる団地を全て回らせて頂こうと心を定め、臨みました。

この日はいつになく多くの訪問先が、「天理教」と名乗っただけで門前払いでしたが、それでもなお延々と続けました。でも、こちらがどんなに「お道の教えを知ってもらいたい」と思っても、「幸せになって頂きたい、たすかって頂きたい」という気持ちを伝えようとしても、取り合ってもらえず…。それはあまりに辛くてしんどくて、途中からは泣きながら回っていました。

そんな時、ふと我を振り返りました。考えてみれば、今までの人生でも、たくさんの人たちがくれた色んな厚意を、無情にも踏みにじってしまったことが何度あったか。それによって、どれだけの人を傷つけてしまったことか。

私の通ってきたそのような道があったのだから、今このような思いをするのは当然だ。親神様は、私のそんな癖性分に気付かせるために、この試練を与えられたに違いない。そう思うと断られるのは自然の成り行き。不足していた自分を申し訳なく思い、すぐに近くの空き地でお詫びのおつとめをさせて頂きました。

「親神様、やっと気付きました。これからは、どんな応対をされても親神様のなされることと思って勇ませて頂きます」

時刻は午後4時。本来なら帰る時間だったのですが、とにかく最後と思い戸別訪問を再開しました。午後5時前、心身共にボロボロになりつつ、もうそろそろかと思い、これを最後の訪問にしようとインターホンを押しました。

若干疲れ気味の声で、「天理教の布教師の者です」と言うと、「え?ちょっと待って」。今までとは違う反応が返ってきて、ドアが開かれると年配の女性が出て来られました。

「あなたどこから来たの?」

「奈良県の天理教の本部から来させてもらいました」

「あら~そう。私、これでも教会長なのよ」

「え!?」

話を聞けば、能登半島にある教会の通いの教会長さんでした。それまで断られ続けてきただけに、その時は何とも言えない安心感が湧き、お互いに色んなことをお話しさせて頂きました。

話がひと段落し、会長さんが「じゃあ、リーフレットだけでも頂こうかしら?」と言われましたが、ちょうど一つ前の訪問先で配り切ったばかりで、あとは次の日に迫った「おぢばがえりお誘いチラシ」しか残っていませんでした。

そこで初めて、翌日のおぢばがえりの計画が書かれたチラシを見せながらお話をしました。すると会長さんは、「この地域には身体の具合が悪くて、普段なかなかおぢばに帰れないようぼくの人が何人かいらっしゃる。バスなら安心だし、あたしも行かせてもらうから、その人たちを誘ってみます」と仰るのです。

最後の最後で…こんな思いも寄らないご守護を頂いた。直接自分が導いた訳ではないのに。何とありがたい! その会長さんともう一人、二名の帰参者をお与え頂きました。そして翌日には、他の同級生がお与え頂いた初帰参者の方三名、合わせて5名の方々とおぢばに帰らせて頂くことが出来ました。

まさか、本当に帰参者をお与え頂けるとは思ってもみませんでした。親神様のお働きというのは何と有り難くて、何と親心に満ち溢れているんだろう。「神の方には倍の力や」とお教え頂きますが、私たちが神様の御用を精一杯つとめる、すなわち神一条の精神で本気でがむしゃらに通れば、親神様は私たちの想像を超えたお働きをして下さるのだと、この布教体験を通して身をもって実感させて頂きました。

 


 

心に吹く風「〝息〟は自らの心の表れ」

 

私たちは常に息をしています。その回数は、一日になんと二万回以上。容積は500mlのペットボトルで二万本にもなります。

これほどまでに大切な息ですが、普段は「吸おう」「吐こう」などと全く意識していません。寝ている間も、呼吸は絶えず繰り返されています。今回は、この「息」について考えてみたいと思います。

息をのむ、息が合う、息が詰まるなど、私たちは、自分の気持ちを表したり、相手との関係を表したり、その場の状況を表したりするときなどに「息」という言葉を使います。また、ため息をついたり、ほっとひと息ついたり、楽器や口笛を吹いたり、ゴミをふっと吹き飛ばしたりと、息の使われ方は実にさまざまです。

冬の日を思い出してください。氷が張るような寒い朝、冷たい手に「はーっ」と息を掛けます。また、熱い味噌汁にも「ふーふー」と吹き掛けます。面白いですね。同じ息ですが、冷たいものを温めたり、逆に熱いものを冷ましたりできるのです。

息を使ってする仕事に、「言葉をしゃべる」というのがあります。言葉も息を使って出している。だから、手を温めたり味噌汁を冷ましたりするのと同じように、人の心を温めたり冷たくしたりするのだと考えてはどうでしょう。

悩みがあって暗い気持ちでいる人の心を、優しい声かけで温かくすることもできれば、元気な人の心を、冷たい言葉で一瞬にして凍らせることもできるのです。同じ言葉を発するなら、できれば元気を失わせるような冷たい言葉よりも、相手の心を明るくするような温かい言葉を使いたいものです。

私はかつて、天理教の鼓笛隊活動で、子供たちに音楽指導をしていたことがあります。

ある年のこと、子供たちのテクニックも表現も上手で、なかなか良い演奏に仕上がったと喜んでいました。このままいけば、コンテストでも金賞をもらえるだろうと確信していました。

いよいよコンテストのパレード当日。本番直前に出番を待っていると、主催者側の係員が、先頭の私にスタートの指示を出しました。その指示に従ったとたん、遠くにいた別の係員が飛んできて、私をにらみつけ、「勝手なことをするな!」と大声で怒鳴りました。最初の係員の指示が間違っていたのです。

私はついカッとなり、指示を出した係員に「君の失敗は許す。しかし、あの言い方はなんだ! あいつをここへ呼んでこい」と言ってしまいました。はっと我に返り、しまったと思って後ろを振り返ると、そこには表情が凍りついた子供たちの顔がありました。私はめったに怒らない、優しい指導者のつもりでした。でも、緊張感も手伝って、つい本性が出てしまったのです。

慌てて笑顔に戻り、平静を装いましたが、時すでに遅し。パレードが始まりましたが、後ろから聞こえる子供たちの演奏する音が、すっかり変わっていて、ついに最後まで本来の演奏を取り戻せませんでした。結果は、金賞にわずか一点足りない「銀賞」でした。

鼓笛隊が使っている楽器は、ファイフという横笛や、鍵盤ハーモニカなどの吹奏楽器が主ですから、ほとんどの音は「息」を使って出します。子供たちの委縮した心からは、委縮した音しか出てこなかったのです。このときほど、「息」の大切さを思い知らされたことはありませんでした。

考えてみると、「息」という字は「自ら」の「心」と書きます。先ほど申し上げたため息や、ほっとひと息つく息も、まさに自分の心が息となって出たものでしょう。

言葉もそうです。思いもしないことが言葉となって出た、などということもありますが、実は自分の心のどこかにあったもの。それを封じ込めることができなかっただけなのです。

不思議な息の働き。それをコントロールしているのは、紛れもない「自分の心」だということを忘れないようにしたいものです。

(終)

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