(天理教の時間)
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第1361回2025年11月21日配信

たすかるとは? リキゾウさんとの日々

家族円満 中臺眞治
中臺 眞治

文:中臺 眞治

第1360回

心の姿勢を正そう

身体に長年の癖があって真っ直ぐ立つのが難しいように、心も長年の間についた癖性分を直すのは難しい。

心の姿勢を正そう

東京都在住  松村 登美和

 

先日ネットで、お盆の帰省ラッシュの折、新幹線で起きた出来事の記事を見ました。それは、投稿主の女性が自分の購入した指定席へ行くと、40代ぐらいの男性が座っていた、という内容でした。

女性は自分の切符を確認し、間違いがないことを確かめてから、男性に「席をお間違いではないですか」と尋ねました。すると男性は「いや、間違っていない。ここで合っている」と言って動こうとしない。男性の身なりがしっかりしていて、自信たっぷりだったことから、自分が間違っているのだろうかと、女性は何度も自分の切符を見直したそうです。

すると近くの乗客が声をかけてきて、女性の切符を一緒に確認してくれました。そして「この席で合っていますね」と言って、座っている男性に「一度切符を確認してください」とお願いをしてくれたとのことです。男性は渋々、切符と座席ナンバーを見比べて確認をしたのですが、やはり「間違っていない。この席で合っている」と答えました。

その乗客が「よろしかったら切符を見せて下さい」と男性に丁寧に声をかけたのですが、男性は「この席で合っている」と言って取り合ってくれません。男性が悠然としている様子を見て、女性は「もしかしたらダブルブッキングなのかな」とも考えたそうです。

ちょうどそこに車掌さんが通りかかりました。事情を話して、車掌さんが男性の切符を確認すると、果たして男性のチケットは隣の車両の同じ番号の席だったのです。男性は恥ずかしそうにそそくさと席を移動した、という話題でした。

記事を読んだ限り、男性は分かっていてわざと席を譲らなかったのではなく、自分は間違っていないと、最後まで思い込んでいたのだろうと思います。この手の座席トラブルはよくある話なのでしょうが、同時に他人事ではないな、と感じました。

自分は正しい、自分は間違っていない、自分はちゃんとやっている。家庭生活でも、仕事中でも、私もそう思っている場面があります。正確に言えば「思い込んでいる場面」です。

しかし、そうした思い込みは、家族間の擦れ合いや、仕事仲間との軋轢を起こす原因になります。それは自分にとっても周りの人にとっても、あまり良いことではありません。

人間は神様ではありませんから、当然、間違っていることも往々にしてあるはずです。

人間同士が互いに気持ちよく生きていくためには、「自分の考えは間違っているのかもしれない」「相手が言っていることの方が正しいのかもしれない」と考えることが必要なのではないでしょうか。では、そうした考え方を身につけるには、どうすれば良いのでしょう。

以前私は、背中に痛みが出て整骨院に通っていました。その折、先生は私を診察台に横たわらせて、「身体を真っ直ぐにしてみてください」と言いました。私が身体を真っ直ぐにすると、「そうですか、それが松村さんの真っ直ぐなんですね。じゃあ、これはどんな感じですか?」と、腰と足首を移動させられました。私は足が左側に捻じれて、何か気持ち悪い感じがしたのですが、先生は「これで身体は真っ直ぐなんですよ」と教えてくれました。

そして、「今度は立ってください。真っ直ぐ立って。いいですか? では鏡を持ってきますね」と言って、真っ直ぐ立った私の前に姿見を持ってきました。鏡を見ると、直立しているつもりの私の身体は、ちょっと左に傾いていました。

先生は「ね、身体が歪んでいるんですよ。自分では真っ直ぐなつもりでも、長年の癖でこうなるんです。普段から気を付けて、鏡やガラスを見て、姿勢を真っ直ぐするようにしてください」とアドバイスを頂きました。

天理教の教祖、中山みき様「おやさま」は、「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」とお諭し下さいました。

人は、身体だけでなく、心も長い年月の間に癖がついてしまいます。身体は、例えばいつも同じ向きで足を組んでいると、その癖がついてしまう。心も、いつも同じ使い方をしていると、気づかないうちにその心の使い方が標準になって、他の考え方が出来にくくなる。切符の間違いに気づかないのは、自分は常に正しいという心の使い方が染みついた結果、と言えるかもしれません。

また、教祖はある日、「伊蔵さん、山から木を一本切って来て、真っ直ぐな柱を作ってみて下され」と、仰ったことがあります。

伊蔵さんというのは、後に親神様のお言葉を伝える立場になられた、飯降伊蔵という方です。伊蔵さんは大工を生業としていたので、早速、山から一本の木を切って来て、真っ直ぐな柱を作りました。すると教祖は「伊蔵さん、一度定規にあててみて下され」と仰せられ、続いて「隙がありませんか」と、仰せになりました。

伊蔵さんが定規にあててみると、果たして隙があります。「少し隙がございます」とお答えすると、教祖は、「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで」と、お教え下されたというお話です。(教祖伝逸話篇 31「天の定規」)

人間の目では真っ直ぐだと思っていることでも、神様から見れば、必ず狂いがある。自分はいつも正しいと思っていても、神様から見ればそうではない。

自分の身体を鏡に映して姿勢を正すように、自分の考えが本当に正しいのか、親神様の教えに自分を照らし合わせて考えてみる。それができれば、人はお互いにもっと幸せになれるはずだと思います。

 


 

徳の器を広げる

 

日常の行動に、その人の癖・性分が現れるのは当然の営みです。例えば、地域のごみ出しの現場においても、その行動は実に十人十色。ごみ袋をポーンと投げるように置いていく人もいれば、後から来て、人が置いていった袋をきちんとネットに被せる人、回収された後にごみ捨て場を掃除する人など様々です。

よその家のごみ袋を整理したり、ごみ捨て場をきれいに掃除する人などは、まさに教祖が教えられた「見えない徳」を積んでいる姿だと言えるかも知れません。

『教祖伝逸話篇』に、次のような逸話があります。

「教祖が、ある時、山中こいそに、『目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか、どちらやな』と、仰せになった。こいそは、『形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます』と、お答え申し上げた」(教祖伝逸話篇 63「目に見えん徳」)

徳には「目に見える徳」と「目に見えない徳」があります。見える徳は物などの形として、あるいは現象を通して知ることができます。欲しい物が思いがけず手に入ったり、お店でサービスをしてもらったりすれば、誰でも得した気分になりますよね。

しかし、この逸話では、その時だけの見える得よりも、見えない「徳」を頂く方が余程ありがたいのだとお教え下さいます。

では見えない徳は、どうしたら積めるのか。それは、いつでもどこでも人様に喜ばれるように一生懸命努めることではないでしょうか。先の身近なごみ捨て場の行いもそうですが、たとえ人目にふれない目立たないようなことでも、心を込めて行うこと。そうすると神様は必ず見ておられますから、少しずつ徳を与えてくださいます。

そして、さらに徳の器を広げる方法は、教祖のお心を学ぶことです。

教祖は、立教当初「貧に落ち切る」道中を歩まれる中、娘さんの「お母さん、もう、お米はありません」との訴えに、

「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や。水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」

と諭されました。

教祖は、無かったらすぐに買っておいでとか、近所から頂いてきなさい、というようなことは一切仰いません。ただ親神様からのお与えを、深くひたすらに喜ばれたのでした。

無いことを嘆いたり、「あれが欲しい、これが欲しい」とむやみに求めたりせず、「与えを喜ばせて頂こう。これで結構、結構」こういう気持ちに心底切り替わることで、徳は増えていくのではないでしょうか。

(終)

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