第1392回2026年6月26日配信
街中の小さなふれあい
フランスでは、日常生活でのあいさつが何よりも大事。それは、互いの立場を超えた平等性の構築につながる。
街中の小さなふれあい
フランス在住 長谷川 善久
天理教の教えによると、この世界の始まりは「人間が互いにたすけ合い、陽気に暮らす姿を見て共に楽しみたい」という親神様の願いにあるとされています。
残念ながら、これまでの人類の歴史では、戦争、紛争、憎しみ合いが無くなったことはありません。一方で、個人生活のレベルで見れば、神様の願いに叶うような経験、一度きりの偶然の出会いで心を通わせたり、ほんわかした優しさを感じたり、小さな幸せを味わうような経験は誰にでもあるのではないでしょうか。
人に接する際に大切なこととしてまず浮かぶのは、心のこもった挨拶やお礼の言葉です。「おはよう」「こんにちは」「ありがとうございます」といった明るい声は魔法の言葉で、この言葉一つでその場の空気は変わります。
この教えでは、挨拶のみならず、人に掛けるすべての言葉「声」は、畑にまく肥料に語呂を合わせ、人生を肥やす「肥」になり得ると教えて頂きます。
学生の頃、天理教に批判的だった未信者の友人から、思いがけずこんなことを言われました。
「先日夜遅くK君に誘われて、あまり気は進まなかったけど本部の神殿に一緒に行ったんだよ。正直退屈だったけど、気持ち良かったことが一つあったわ。神殿に上がる時に、靴べらを持った見知らぬ人に声を掛けてもらってさ、『こんばんは、ご苦労様です』って。俺みたいな奴にも声を掛けてくれて、なんだか嬉しかったよ」
私が住むフランスでは、日常生活の中での、「こんにちは」「さようなら」「ありがとう」などの挨拶が何よりも大事です。例えば日本でコンビニに入った時に、カウンターにいるアルバイトの店員に挨拶をする人はほとんどいないでしょう。しかし、フランスではお店に入る時には必ず「こんにちは」と挨拶し、出る時には「さようなら」と言います。
これは単なる個人間の礼節に由来するものではなく、フランスでは文化的要因を含む常識となっています。
フランスでは、個々の存在を大変重要視しますが、それを起因として「こんにちは」には三つの意味づけが見られるそうです。
まず、そこにいるのはお店の人だという承認。次に、その人は職業従事者である前に一人の人間であるという配慮。そして、この配慮の上に、お互いの立ち場の違いを超えた平等性を構築することが出来るのです。
もし、あなたが黙ってお店に入ってしまえば、店員はあなたから「人として存在しない者」、あるいは単なる「道具」モノであると見なされたと思い、侮辱されたと感じてしまうのです。
実際、私も来仏当初は、このようなフランスの文化を知らずに数々の失敗をしました。
あるレストランでは、注文してから料理が出てくるのがあまりに遅いので、日本にいる調子で少し強めの声で店員さんを呼ぶと、「分かってるから、いちいち呼ぶな!」と、かえってより大きな声で怒鳴られたこともありました。
また、高速道路の料金所では、すぐにお金を受け取ってもらえず、窓口の人は私に「ボンジュール」と繰り返すばかり。訳が分からず困惑していると、「ハッ」と気づきました。答えは「あいさつ」。お金を渡す前に、私に対してキチンと挨拶をせよ、ということだったのです。おかげで今では、街中で道を尋ねる時でも、いきなり要件から入らずに、相手の目を見て「こんにちは」とひと言挨拶をする所から会話に入れるようになりました。
このような、日常生活のどんな場面であっても、人を決して道具のように扱わないフランスの生活ぶりが私は気に入っています。
お客さんに対する店員の対応で、こんなこともありました。私たちが食事をとっている隣のテーブルに、落ち着いた感じの中年のフランス人の男女カップルがいました。男性のほうは、席に座るやずっと一人で携帯を見ています。30代ぐらいの女性店員さんが注文を取り終えた後も、ずっと携帯を見たままでした。向かいに座るフランス人女性は、黙ってつまらなさそうな様子です。
そこに料理を運んできた先ほどの店員さんが、男性に向かっておもむろにこう言いました。
「あなた、何をさっきから携帯ばかり見ているの? 目の前にこんなに綺麗な女性がいるのに、もったいない」
男性は、ただ目をパチクリさせるだけ。女性はにっこり笑って、店員さんに「メルシー」〝ありがとう〟と一言。その後は気まずさも手伝ってか、男性は携帯を片付け、二人での明るい会話が始まりました。
この一連のやり取りには、私も妻も驚き、さすがフランス人だなとカルチャーショックを受けたものです。まさに店員とお客さんという関係を越えた、他者との距離感の近さを垣間見た瞬間でした。
妻がある日の駅で経験したことも驚きでした。その日、妻は列車に乗り遅れまいと必死に駅の構内を走り、ホームにたどり着きました。しかし、電車のドアは目の前で閉まってしまったのです。
妻はハアハアと息を切らしながら、ホームの椅子にへたり込んでしまいました。すると、その様子を見ていたのでしょう、そばに座っていた老婦人が、かばんの中から持っていたジュースを取り出して、妻にやさしく差し出したというのです。
この偶然にも素晴らしい親切に出会ってから、妻がそれまで持っていたフランス人イコール個人主義で、勝手でわがままというイメージは大きく変わったのでした。
フランスは日本に比べ、治安はかなり悪いと感じる場面が多いのも事実です。しかし、日本では経験したことのないような、街ですれ違う人の純粋な優しさに触れる機会が多いのも、これまた事実なのです。
天理教では、世界中の人間は、等しく神様を親に持つ「きょうだい」であると説かれています。家族をはじめ、出会う人すべてが、単なる偶然ではなく、深い縁があって結ばれていると教えられているのです。
「こんにちは」「ありがとう」「お疲れさま」といった優しい言葉や心遣いの小さな積み重ねが、やがては全人類を明るく照らす大きな光になると信じています。
皆身上から随き来る
親神様は、私たち子供が可愛い故に、陽気ぐらしへの道を急き込まれる上から、様々な病気や事情によって、この道にお引き寄せ下さいます。
お言葉に、
「この道は皆身上から随き来る。身上でなくして随いた者は、ほんの一花のようのもの」(M33・11・26)
とあります。身上とは、病気のことを指します。
身体の他に頼るものがないことを、「裸一貫」と言います。自分は全く何もない所、裸一貫から自らの力だけでここまで人生を築き上げてきたんだ、と自負する人も多くいることでしょう。何はなくとも、この身体だけは自分のものであると思って疑わない。これが世の常識であるかも知れません。
しかし、この教えはその常識を打ち破るものです。教祖直筆による『おふでさき』に、
にんけんハみな/\神のかしものや
なんとをもふてつこているやら (三 41)
めへ/\のみのうちよりのかりものを
しらずにいてハなにもわからん (三 137)
と記されているように、人間の身体は我がものではなく、親神様からの「かりもの」であると教えられます。
『天理教教典』第七章「かしもの・かりもの」には、「いかに己が力や知恵を頼んでいても、一旦、身上のさわりとなれば、発熱に苦しみ、悪寒に悩み、又、畳一枚が己が住む世界となって、手足一つさえ自由かなわぬようにもなる」との一節があります。
健康に恵まれ、人生が上り調子の時、人は時として慎みの心を失い、自分の力だけで生きているかのように思い誤りやすいのです。しかし、体温が一度でも上昇したり、心臓の鼓動が若干変化するだけで、私たちは日常生活に大きく支障をきたしてしまいます。
この身体の微妙な働きを司っている、その正体は何か。これこそ元の親・実の親である親神様の大いなるご守護なのです。この身体は親神様からの「かりもの」であること、そして、その親神様に見守られながら、私たちは日々生かされて生きていること。この「かしもの・かりもの」の真実に心が開かれるところに、私たちの日々の暮らし方は大きく変わり始めるのです。
(終)
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