第1371回2026年1月30日配信
をやの代り
心を病んでいる男性を教会で預かることに。なかなか心を開かない男性に、4歳の娘が穏やかに声を掛けた。
をやの代り
千葉県在住 中臺 眞治
今から四年前のある日、市役所から電話がかかってきました。
「60代の男性を一人、今日から数日でいいので天理教さんで預かってもらえませんか? 一人にすると自殺してしまう可能性が高くて…。入院させてあげたいんですが、それにはどうしても時間がかかるんです」とのこと。
私は「大丈夫ですよ。どうぞ連れてきてください」と答え、その方が来るのを待ちました。
40分ほどして、市役所の職員さんがその方を連れて来られました。早速部屋までご案内したのですが、その方は部屋の前までは来たものの、一向に中に入ろうとしませんでした。
私と職員さんが「どうぞどうぞ」と言っても、首を何度も横に振りながら、「ダメだ。自分は悪い人間なんだ!死ぬべきなんだ!」と繰り返すばかりで、私たちも戸惑ってしまいました。
「大丈夫ですよ。何も気にしないでください」と何度伝えても首を横に振るばかり。そんなやり取りを20分ほど繰り返していました。
罪悪感や自己嫌悪の感情に心が支配され、あきらかに心を病んでしまっている様子でした。どうしたら良いのだろうかと途方に暮れていたその時、当時4歳だった娘が近づいてきました。
そして、その男性の横に立ち、顔を見上げながらゆっくりと穏やかな声で、
「おじさん、ここはね、神様がいるところだから、大丈夫だよ」
と言ったのです。
すると男性は「うん」と大きくうなずいて、部屋の中へと入っていきました。その光景を見た市役所の職員さんは、娘に「そうだよね。ここには神様がいるもんね」と笑顔で言ってくれたのでした。
その日の夜、妻に一連の出来事を話すと、「え?それ、まこちゃんが言ったの?」と驚き、ぽろぽろ泣きながら娘に近づいて、たっぷりたっぷり褒めていました。後日、男性は無事に入院することができ、市役所の職員さんもとても喜んで下さいました。
この出来事から4年が経ち、娘は8歳になりました。つい先日の話になるのですが、学校から帰ってくるなりその日の出来事を聞かせてくれました。
「先生がね、蜂に2回刺されたんだって。でもね、大丈夫だったんだって。何でだろうね?って聞くからね、それはね、神様がたすけてくれているんだよって教えてあげたんだ」とのこと。
私はその言葉を聞いてとてもあたたかい気持ちになり、「それはとても大切なことを教えてあげたね。お父さん嬉しいよ」と伝えました。
今後、子供たちがどんな大人に育っていくか、どんな運命を辿っていくかは私には分かりません。しかし、どうであったとしても、自分の人生をしっかり受け止め、前向きに生きていってほしいと願っています。そして、そのための支えとして、信仰を伝えていきたいと考えています。
時々夫婦で、「どうしたら子供たちに信仰が伝わっていくのだろうか?」と話し合うことがあります。8歳と6歳の子供たちに「おつとめの時間だよー」と声をかけても、「今は遊んでるからムリー」と返される始末。なかなか先は長いなと感じています。
子育てについて、天理教では「をやの代りをするのや」(M21.7.7)と教えて下さっています。ここでいう「をや」とは神様のことであり、「をやの代りをするのや」とは、子育ては神様の代わりをさせて頂くものであるということを意味しています。
人間世界を創造し、今も絶えずご守護をお与え下さっている神様の代わりとは、何とも身の引き締まる思いがします。それは、子育てを通して、私たち夫婦が神様の大きな親心にどれだけ近づいていけるのかが問われているということです。そう考えると、親としての自分をとても未熟に感じてしまいます。
少し話は変わるのですが、私はこれまでの人生で「親孝行」や「親孝心」という言葉を意識して生活したことはほとんどありません。両親のことを思い浮かべた時、感謝や尊敬という感情が自然と湧いてくるからです。
なぜ、今、自分がそのように思えているのか。それは、両親が神様の大きな親心に近づく努力を日々積み重ねていたからであり、どんな時も神様の代わりとして、真実込めて私たちきょうだいを育ててくれていたからだと思います。
そうして振り返ると、両親に対する感謝や尊敬の思いは、自分の努力で身に付けたものではなく、「をやの代り」をしていた両親が与えてくれたものであったのだと気付かされ、さらなる感謝の気持ちが湧いてくるのです。
ひとすぢごゝろ
六ツ むりなねがひはしてくれな
ひとすぢごゝろになりてこい
七ツ なんでもこれからひとすぢに
かみにもたれてゆきまする (三下り目)
教祖は、日々唱える「みかぐらうた」の中で、このように教えられています。この二首は、「ひとすぢごゝろになりてこい」という親神様の呼びかけに対して、「かみにもたれてゆきまする」と人間の側からお誓い申し上げる形式になっています。
「ひとすじ」とは、信仰の世界だけでなく、社会の中で広く使われている言葉です。たとえば、ある一つの仕事をコツコツと長年続けている人は、その道一筋だと言われます。また、自らに課した約束事をひたすら守り続ける人にも、この言葉が当てはまるでしょう。
その上で、信仰における「ひとすぢごゝろ」とはいかなるものか。それは、どんな時にも親神様の思いに心を合わせて生きる姿勢を貫くことです。自らの考えを押し通していく一筋ではなく、我が身思案を捨て去って、親神様のお計らいに身をゆだねていく生き方です。
この親神様の思いに叶う一筋心は、実は私たち人間が本来持っている資質であると言えます。それは、この世の元初りにおいて、親神様が人間を創造されるにあたり、その雛型と道具を引き寄せられる場面によって明らかです。教典第三章「元の理」に、このように記されています。
「そこで、どろ海中を見澄まされると、沢山のどぢよ(泥鰌)の中に、うを(魚)とみ(蛇)とが混っている。夫婦の雛型にしようと、先ずこれを引き寄せ、その一すじ心なるを見澄ました上、最初に産みおろす子数の年限が経ったなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさせて貰い受けられた」
親神様は、人間を生み出す雛型となるものの「一すじ心なるを見澄ました上」で、承知をさせて貰い受けられている。すなわち私たち人間には、あらかじめ一筋心という特性が備えられており、またそのような心の働きを親神様は私たちに求めておられるのです。
「ひとすぢごゝろになりてこい」との呼びかけに対して、「かみにもたれてゆきまする」と親神様に宣言をしているわけですから、これは何としても実現させたいものです。
目に見えない親神様に身を預けるためには、ひたすら我欲を捨て、親神様への信頼ひとすじに通り切る。もたれるという語感からは、やや消極的な印象が感じられますが、むしろ積極的な心の大転換が必要です。
どのよふな事をするにも月日にて
もたれていればあふなけハない (十一 38)
どのような事が起きても、神の思いにもたれていれば決して危ないことはないのだと、私たちの元の親、実の親である親神様はそう断言して下さっています。
(終)
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