第1349回2025年8月29日配信
共に栄える理
米の価格が高騰している。妻とその話題になった時、教祖のあるお言葉が頭の中をよぎった。
共に栄える理
東京都在住 松村 登美和
今年の夏も、厳しい暑さが続いています。振り返ると、ちょうど一年前は、今頃の季節からスーパーマーケットの棚からお米がなくなり始めて、以来「令和の米騒動」と呼ばれる状況が続いています。
3月からは政府備蓄米の放出が始まり、我が家も安い米を入手しようと、スーパーマーケットやドラッグストアのチラシをこまめにチェックするようになりました。
6月に近所のスーパーで、一回目の放出分の米を5キロ3,500円で買ったのですが、その時妻と「今まで4,500円ぐらいしていたから、たすかるね」「でもよく考えたら、去年の今頃は5キロ2,000円ちょっとだったよなあ。やっぱり高くなったなあ」などと話をしていました。
その夜、テレビでお米の値段について話題になっていました。「消費者にとっては安い方がありがたいけれども、生産者の農家からすれば、今までの値段は安すぎた」との内容でした。
番組では、農業関係者の方が「生産者側にとっての適正価格は?」とインタビューされて、「5キロで最低3,000円は…」「3,000円から4,000円」「3,500円は欲しい」など、それぞれの相場観を語っていました。
私は「もうちょっと安い方がいいなあ」と思いながら見ていたのですが、妻は「そう言えば、結婚した頃は今よりだいぶ、お米の値段は高かったわよね。農家の方にしてみれば、値段が下がり過ぎるのも辛いわよね」と言いました。
その時にふと、天理教教祖・中山みき様「おやさま」のあるお言葉が、頭の中をよぎりました。それは「高う買うて安う売りなはれや」というお言葉です。
天理教には、教祖が時々にお教え下されたお言葉などをまとめた『天理教教祖伝逸話篇』という書物があります。その中の一遍に記されている内容を少し紹介します。
ある時、43歳になる男性が、教祖のもとへ詣りました。その時、教祖が「あんた、家業は何をなさる」と、お尋ねになりました。男性が、「はい、私は蒟蒻屋をしております」と、お答えすると、教祖は、「蒟蒻屋さんなら、商売人やな。商売人なら、高う買うて安う売りなはれや」と、仰せになりました。
ところが男性は、どう考えても、「高う買うて、安う売る」という意味が分かりません。そんな事をすれば、損をして、商売が出来ないように思われる。そこで、早くから信仰をしていた先輩に尋ねたところ、こう諭されたそうです。
「問屋から品物を仕入れる時には、問屋を倒さんよう、泣かさんよう、比較的高う買うてやるのや。それを、今度お客さんに売る時には、利を低うして、比較的安う売って上げるのや。そうすると、問屋も立ち、お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ。これは、決して戻りを喰うて損することのない、共に栄える理である」。
男性はそれを聞いて、初めて「成る程」と得心がいった、という逸話です。
私は米にせよ何にせよ、安い方がありがたいと思う訳ですが、確かに妻の言う通り、作る側にしてみれば、それが辛い状況につながることもあるのです。
天理教では、「自分さえ良ければ人はどうでもよい」という考え方は、「我が身可愛い」ほこりの心遣いである、と神様から戒められています。それを妻の一言で思い出しました。
ところで、今回改めてこの逸話を呼んで、一つ心に留まった一文があります。それは「問屋も立ち、お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ」という部分です。「理で立つ」とは、どういった意味なのでしょうか。
問屋から高く買えば、問屋は喜びます。そうしたことで信頼関係を築き上げられれば、例えば商品が品薄になった時でも、多少なりと融通してもらえるかもしれません。また、お客に安い値段で売っていれば、客足は伸びていくでしょう。それが人情というものです。
しかし、男性に諭し話をした先輩は、そうした義理人情だけで「自分の店が立つ」と話したのではないように感じます。
自分の利益を優先する態度を「利己主義」と言います。その反対にあるのが「利他」の精神です。他人のために心を使ったり行動をしたりすることです。
親神様は、世界中の人間の「陽気ぐらし」をお望みになっています。ですから、そうした「他人が良いように」との態度や心遣いをお喜び下さいます。そして、そのような心遣いが出来る人には、親神様は大きな徳、ご守護を下さいます。
つまり「理で立つ」とは、「問屋を泣かさないように」「お客が喜ぶように」という真実ある態度を親神様がご覧下さり、ご守護を下さる。それが「天の理」で立つ、ということではないかと思うのです。問屋やお客が応援してくれるのも、見えない親神様のお働きの顕れなのかもしれません。
さて現在、稲刈りが早く行われる地域では、すでに米の収穫時期を迎えています。今年も全国各地で、親神天理王命様の十全のお働きを頂いて、順調に米の収穫が進むことを願っています。そして、今年の新米は、農家も立ち、自分も立ち、共に栄える理が頂けるように、入手の仕方を考えたいと思います。
おふでさき御執筆
ここでよくご紹介する「おふでさき」とは、天理教教祖・中山みき様「おやさま」が、親神様の思召しのままに、和歌の形式で筆に記された書き物のことを指します。
このよふハりいでせめたるせかいなり
なにかよろづを歌のりでせめ (一 21)
せめるとててざしするでハないほどに
くちでもゆハんふでさきのせめ (一 22)
なにもかもちがハん事ハよけれども
ちがいあるなら歌でしらする (一 23)
この世は理詰めの世界である。つまり、すべては親神様のご守護によって成り立つ世界であるということです。その理というもの、すなわちご守護の流れというものを、手で指し示したり口で諭すのではなく、筆によって教えていく。
そして、その理由について「これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた」(M37・8・23)と、一度聞いただけでは忘れやすい私たちの上を思ってのことであると仰せられます。
さらに続けて、「ふでさきというは、軽いようで重い。軽い心持ってはいけん。話の台であろう。取り違いありてはならん。」(M37・8・23)と、一首々々、軽い心で受け取ってはならないと戒めておられます。
さて、「おふでさき」ご執筆のご様子について、教祖はこのように語られています。
「ふでさきというものありましょうがな。あんた、どないに見ている。あのふでさきも、一号から十七号まで直きに出来たのやない。神様は、『書いたものは、豆腐屋の通い見てもいかんで』と、仰っしゃって、耳へ聞かして下されましたのや。何んでやなあ、と思いましたら、神様は、『筆、筆、筆を執れ』と、仰っしゃりました。七十二才の正月に、初めて筆執りました。そして、筆持つと手がひとり動きました。天から、神様がしましたのや。
書くだけ書いたら手がしびれて、動かんようになりました。『心鎮めて、これを読んでみて、分からんこと尋ねよ』と、仰っしゃった。自分でに分からんとこは、入れ筆しましたのや。それがふでさきである」
だん/\とふてにしらしてあるほどに
はやく心にさとりとるよふ (四 72)
とのお歌があります。親神様は、私たちに「おふでさき」のお歌を日々繰り返し繰り返し味わい、心に深く治め、この世界の真実を早く悟りとることを、切に願っておられるのです。
(終)