(天理教の時間)
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第1291回2024年7月19日配信

「生き方が分からない」と嘆く少年

家族円満 中臺眞治
中臺 眞治

文:中臺 眞治

第1284回

トゥクトゥクに揺られて

数々のカルチャーショックを受けつつ、現地のタイ語学校へ通っていた20代の頃、あるやさしい運転手に出会った。

トゥクトゥクに揺られて

タイ在住  野口 信也

 

私がタイへ初めて来たのは35年以上前、22才の時です。タイ語の勉強のため、タイ語学校へ通っていました。また、生活の中でも出来るだけタイ語に触れるために、信者さんのお宅に下宿させてもらっていました。

その下宿は、旧市街地のトンブリという地区にありました。地区の主要道路から小路を5、6キロほど入り、さらにそこから車一台が通れるぐらいの細い砂利道を200メートルほど入っていきます。

毎朝、お手伝いさんが「元気が出るから飲みなさい」と言って作ってくれる、砂糖と練乳の入ったあま~いコーヒーを飲んで出発。砂利道を出たところで、満員の乗り合いトラックにつかまって大通りまで出ます。

そこから、6人ぐらいが乗れるトゥクトゥクというオート三輪で船着き場まで行き、定期船に乗っておよそ20分で学校近くの船着き場に到着。そこからさらにバスに乗って2、30分、ようやくタイ語学校に到着します。バスだけを使って学校まで行くルートもありますが、バンコクの朝のラッシュ時は渋滞が激しく、船を使ったルートが最も快適でした。

私の通っていたタイ語学校は、キリスト教の布教師のために開かれた個人経営の学校で、クラスメートは10人全て違う国の方々で、私以外は全員がキリスト教の関係者でした。授業はベテランのタイ人の先生が、ほぼ英語も使うことなくタイ語のみを使って教えるスタイルで、みんな和気あいあいと楽しく勉強していました。

授業が始まって数日後、その日の会話の内容は自分の兄弟についてでした。私は11人兄弟ですので、兄弟の話になるといつもみんなに驚かれて、色々と質問されたりします。タイでも同じような反応をされるだろうと思い、構えていました。

先生はまず最初に、カナダ人女性に「あなたの兄弟は何人ですか?」と尋ねました。すると「13人です」とのこと。私はびっくりしてその人のほうを見ましたが、他の生徒は驚きもせず少し違和感を感じました。

でも、すぐにその意味が理解できました。次に聞かれたアメリカの婦人が「私は14人兄弟で、末っ子の双子です」と言ったのです。その隣のオーストラリア人も10人以上の兄弟でした。ですから、私が「11人兄弟です」と答えた時も、当然誰も驚きませんでした。実にクラスの半分以上の人が、10以上の兄弟がいると答えたのです。

キリスト教という宗教を少しは知っているつもりでいたのですが、神様を信じて、授かった子供たちを大切に育てる。そうした信仰を持つ人たちに囲まれていることに、強い安心感や親近感を覚えました。

また、私のクラスメートの共通点の一つは、疑問に思ったことは遠慮なく率直に聞くということです。自分たちより若いタイ人の先生に、タイで見聞きして疑問に思ったことを遠慮なく質問するので、内容によっては先生も大変答えにくそうでした。

例えば、消防署について。家が火事になれば、当然どの国でも消防署に連絡を入れ、すぐに消火活動が行われます。ところがタイの場合、消防署に電話を入れると、まず最初に行われるのが金額の交渉です。いくら支払うかによって、消防車が何台出動するか、といったやり取りがされるというのです。さすがに先生も、「恥ずかしいので本当のことは言えません」と答えてその場をしのいでいました。

私はそれを聞いて、日本で教わっていたタイ語の先生が、「『地獄の沙汰も金次第』と言いますが、あれはタイのことです」と、冗談ぽく仰っていたことを思い出しました。タイは貧富の差が激しく、首都バンコクには多くの方が田舎から出稼ぎにやってきます。貧しい人々が身を寄せ合って暮らすスラムも多く存在し、障害のある方が道端で物乞いをしたり、子供が路上で車の窓ふきや花売りをしている姿を見かけることも多いのです。

こうした問題は何もタイだけの話ではありませんが、若かった私は、こうしたタイの現実に少なからずカルチャーショックを受けました。

さて、そうした中、ある日知り合いと遅い夕食を終え、繁華街から下宿へ帰る時のことです。道路の混雑もないので、トゥクトゥクで帰ることになり、運賃は交渉の末、60バーツに決まりました。

途中、半分眠りかけながらトゥクトゥクに揺られていると、急に停車しました。どうしたのかと思い目を開けると、検問のようです。警察が次々にタクシーやバイクやトゥクトゥクを止め、運転手から免許証を取り上げていきます。私が乗っていたトゥクトゥクの運転手は、免許証を警官に渡す時に「どうしてですか」と、聞き取りにくいタイ語で尋ねていました。警官は彼の免許証を一瞥すると、返事もせずにそれをポケットに入れ、別の車の方へ歩いて行きました。

なるほど、普通に走っていただけなのになぜ捕まったかと思えば、酔っぱらった警官が小遣い稼ぎで車両を止めているようでした。100バーツを支払った運転手にはすぐに免許証が返され、解放されるという仕組みのようです。

運転手は「お兄さんごめんね」と私に申し訳なさそうに謝り、「私は地方からバンコクへ出てきたばかり。今日も今、仕事を始めたところで売り上げもなく、警察に払うお金がないんだ」と状況を説明してくれました。

私は運転手にではなく、警官に対して腹が立っていたので、何とか粘って100バーツを払わずにここを通り抜けることを考えていました。しかし、警官は我々を気にも留めず、やって来る車両を次々に止めて同じことを繰り返しています。とうとう私も粘り負けで、運転手に100バーツを手渡しました。

こうした状況の場合、普通なら乗客は警察に止められた後すぐに下車して、近くを走っている車に乗り換えてしまうのですが、私は運転手が気の毒でそうはしませんでした。私のような外国人が乗っていれば、警察が諦めるのではという期待もあり頑張ってみましたが、結局だめでした。

100バーツを支払い、免許証を返してもらった運転手は、合掌して何度もお礼を言ってくれました。そして再びトゥクトゥクを走らせ、下宿前の砂利道の入り口に到着。「砂利道に入るとUターンが難しいので、ここからは歩いて行きます」と言って、降ろしてもらいました。

私が運賃の60バーツを渡そうとすると、運転手は驚いて「結構です」と断りました。警官への100バーツを払ってもらった上に、乗車賃までもらえない、という意味であろうと理解しましたが、運転手に責任があるわけではないし、また、彼の優しい人柄にほだされた面もあり、「乗車賃ですから」と言って、何とか受け取ってもらいました。

すると彼は急に涙を流し、合掌をしながら何度も何度もお礼を言ってくれるのです。私も少しはいいことをした気持ちになっていましたが、まさか涙を流されるほどとは思わず、驚いてしまいました。彼としては、本当に切羽詰まった思いだったのでしょう。

下宿までの砂利道を、色んなことを考えながら歩いて行きました。この砂利道は周りが木々に覆われ、電灯などもなく、夜は真っ暗です。しかし、ふと「いつもより明るいな」と感じて後ろを振り返ると、何と先ほどの運転手が、私の歩く砂利道をトゥクトゥクのヘッドライトで照らしてくれていたのです。どこまで行っても、ずっとずっとです。私は手を振り下宿へと歩いて行きながら、何とも言えない気持ちになりました。

「むごいこゝろをうちわすれ やさしきこゝろになりてこい」

と、天理教の教祖「おやさま」は教えてくださっています。当時の私は警官の所業に腹を立てていましたが、運転手の純粋な心に、嫌な思いも全て吹っ飛んでしまいました。そして、彼には無事で元気に頑張ってほしいと、心から願いました。

人を責めるようなむごい心遣いは、争いや苦しみを生むだけです。そうではなく、困っている人や苦しんでいる人に、少しでも優しさを届ける。そうした行いが自分を含め、人に幸せをもたらしてくれるのだとあらためて思う、今日この頃です。

 


 

はなしのたね

 

天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、「みかぐらうた」の十下り目において、

 

  三ツ みづのなかなるこのどろう
     はやくいだしてもらひたい

  四ツ よくにきりないどろみづや
     こゝろすみきれごくらくや

  五ツ いつ/\までもこのことハ
     はなしのたねになるほどに

 

と教えられています。

三ツと四ツのお歌で、水と泥のたとえを用いて、人間の心の欲について仰せられています。このような話になると、厳しい禁欲的なイメージが思い浮かぶかもしれません。しかし、教祖が欲を離れるように促されるのは、あくまでも、それによって私たちが陽気ぐらしを味わうことができるからなのです。

江戸時代末期の人々には、病気や事情などのつらく苦しい状況が表れると、やみくもに神仏に祈ったり、あるいはこの世での解決を諦め、理想の世界を極楽浄土に求めたりする風潮がありました。そんな中、教祖は、自らの心を濁らせている「欲」を取り払い、心を澄み切らせることによって、この世で極楽のような世界が味わえることを教えてくださいました。

現在は医療が発達し、昔ほど神仏にすがる状況ではありません。しかし、医療がどれほど発達しても、それによって根本的な心の問題を解決することは難しいでしょう。

この世界には、自らの人生に希望を見出せずにいる人が多く存在します。そのことからしても、私たちが本当の幸せを手に入れるためには、自らの欲の心に向き合っていくことが必要であり、そこに誰もがたすかっていく道があるのです。

そして教祖は、続く五ツで、これらの教えは、いついつまでも話の種になる。つまり永遠に変わることのない、人々がたすかっていくための真理であることを仰せられています。

(終)

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