(天理教の時間)
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第1279回2024年4月26日配信

欲しい愛情のかたち

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1266回

ジャカルタの交通事情と家族の姿勢に見ならう

ジャカルタの大渋滞に不便さを感じ、バイクでの移動を始めた。すると、徐々に見えない独自のルールが分かってきた。

ジャカルタの交通事情と家族の姿勢に見ならう

インドネシア在住  張間 洋

 

私が2019年の夏に、天理教インドネシア出張所勤務の御用を頂いてから、丸四年が経ちました。その間にはコロナに感染したり、色々なことが起こりましたが、現地の教友の方々が心を尽くしてくださるおかげで、何とか務めさせて頂いています。

さて、突然ですが、皆さんはジャカルタの交通事情について見聞きされたことはありますか? 毎日時間を問わず各所で起こる大渋滞。その渋滞する車の隙間を縫うように走り、時に自転車専用道路や歩道を逆走するバイクの列。その交通状況の悪化に追い打ちをかけるように進められる道路工事と電線地中化工事。道端のそこかしこにたむろする、バイクタクシーの運転手たち。そんな中で、わずかなチップを目的に、道路の混乱を収めようと勝手に仕切りだす交通整理おじさんの介入で、状況はさらに悪化。これがジャカルタ市内の、一歩屋外に出た時の日常です。

こうした交通事情が原因で、車での移動の際、時間を大幅に取られることにいつも不便を感じていたので、昨年からバイクに乗り始めました。しかし、日本の舗装された道路と違い、常に道路の陥没に気をつけなければなりませんし、時にはヘルメットもかぶらずに、逆走したり急に飛び出してくるバイクもいて、いつでも四方八方に注意を向けていなければ危険です。それまでバイク運転未経験だった私は、当初、その状況に怖気づいて、道路の真ん中でエンストを繰り返していました。

そんな中でも、バイクであちこち移動をしていると、徐々に見えないルールが分かってきました。ここの停止線では止まってはいけない、この信号を守ると追突される可能性がある、ここでは車と車の間から追い越しをした方が安全だ、など、一見、危険運転をしているようでも、実は現地の交通事情に則していて安全だということがたくさんあったのです。

皆がお互いを困らせようと思って、そのようなルールができたわけではありません。そこに住む人々は他に環境を選べないので、あるがままの状況を受け止め、逆らわずに自分を上手に合わせた結果、そうなったのだと思いました。

私はこの経験を通して、いちばん身近な妻や子供との日々の通り方も、これと同じではないかと感じたのです。

私たち夫婦は、結婚以前からそれぞれインドネシアに関わりを持っていて、私自身、インドネシアで神様の御用を務めることを学生時代から望んでいました。とは言え、ジャカルタに住み始めた当初は分からないことだらけでした。

どこで何を買えばいいのか、公共料金はどこで支払えばいいのか、人との付き合い方や場面に応じた服装など、御用以前の日常生活の基本を一つひとつ家族で学んでいきました。当時9歳と5歳の子供たちにとっては、環境が急激に変化し、言葉も分からない土地で色々と苦労をしたと思いますが、与えられた状況の中で精一杯頑張ってくれました。

ジャカルタ赴任の御用を頂く以前のことですが、私は新婚当初は夫婦の間の衝突を避けるために、言うべきことを言わずに自分の心の中でせき止めることが度々ありました。その上、私には自分が正しいと思ったことを曲げないという悪い癖があります。さらには元来の心配性から、家庭の外で起こる出来事にも自分の心をうまく合わせることができず、心はいつも疲れていました。

親神様はそんな私の心遣いを心配してくださったのか、結婚して5年が経つ頃、私はバセドー病を発症しました。

バセドー病は、甲状腺ホルモンが過剰に分泌されることで、全身に様々な症状を引き起こす病気です。私の場合、目に見えて身体的に疲れることが多くなりました。朝起きた時から、すでに徹夜をしたような気だるさと、運動した翌日に全身筋肉痛になった時のような疲労感があるのです。少し動いただけで心臓がバクバク音を立て、すぐに疲れてしまうので、休息を取りながらでないと何事もままなりません。

それまでは病気もせず、健康な身体を神様からお貸し頂いていると思っていたので、体力が急に落ちたことで、人として役立たずになってしまったように感じました。

日常生活で普通にできていたことができなくなり、妻や子供に手伝ってもらったり、介抱してもらったりする中で、今までいかに妻の優しさに甘え、自分がわがままになっていたか、また我が子に対しても不遜な態度をとってしまっていたことに気づきました。家族に対する恩や、手を差し伸べてくださる周りの方々への恩も感じているつもりでしたが、病気になったことにより、自分の心遣いも一から積み直さなければならないと思い至りました。

そんなこともあり、ジャカルタに赴任してからは、一つひとつ妻と相談しながら、自分としては真っ直ぐに出張所の御用をさせて頂き、家族にも心を配ったつもりでいたのですが、一昨年から再びバセドー病が悪化してしまいました。

今は通院のおかげで随分楽になりましたが、極度の疲労状態になると、人が変わったように沈み込むこともあります。自分一人だけが辛い目に遭っている気持ちになり、家庭の中に嫌な空気を漂わせてしまうのです。

ただ、私にとって幸せなのは、辛い状況にあっても、あるがままの私を受け止め、笑って勇気づけてくれる妻が隣りにいることです。また、こんな父親でも、調子が悪い時には気遣ってくれ、冴えない笑い話にも付き合ってくれる子供たちのおかげで、毎日心晴れやかに過ごすことができます。

ジャカルタの過酷な交通事情の中でも、軽やかに運転するドライバーのように、何が起こってもあるがままを受け入れ、状況に逆らわずに心を合わせてくれる妻や子供たちの姿勢を見ならって、日々勤めていきたいと思います。

 


 

ほしいのほこり

 

天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、私たち人間の間違った心遣い、神様の思召しに沿わない自分中心の心遣いを「ほこり」にたとえてお諭しくださいました。

教祖は、ほこりの心遣いを掃除する手がかりとして、「おしい・ほしい・にくい・かわい・うらみ・はらだち・よく・こうまん」の八つを教えられていますが、そのうちの「ほしい」のほこりについて、次のようにお聞かせいただいています。

ほしいとは、心も尽くさず、身も働かずして、金銭を欲しがり、不相応に良き物を着たがり、食べたがり、また、あるが上にも欲しがるような心。何事もたんのうの心を治めるのが肝心であります。

自分が働いた分の収入を得たいと思うのは正当な要求ですが、できることなら働いた以上にもらいたい、あるいは楽をして、人一倍もらいたいというような心。それはほこりであると、はっきりお諭しくだされています。

また、不相応に良き物を着たがり、食べたがり、というのは、自らの徳分に見合わないものまで欲しがる、ということでしょう。お金があるから贅沢をする、というのではなしに、お金があるないにかかわらず、粗末な食事をも感謝して食べられる人が、本当の意味で徳分のある人と言えるのではないでしょうか。つまりは有っても慎む、という意識を常に忘れずにいることが、ほしいのほこりを積まない秘訣なのです。

さて、最後に「何事もたんのうの心を治めるのが肝心」とあります。たんのうとは、これで結構、有り難いと前向きに受け止めることです。ほしいのほこりに即して言えば、金銭や物が十分にないことを不足に思ったり、嘆いたりするのではなく、それが現在の自分に相応しい与えであると納得し、喜んで受け入れることです。

さらに言えば、ものに関してだけでなく、人に「ああして欲しい、こうして欲しい」と求める心遣いも、ほしいのほこりとなります。

自分の意に沿わない人に対して不満を抱いたり、人のせいにしたりするのではなく、自らの心の持ち方を変え、いつでも喜びの心で通れるよう努めたいものです。

(終)

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