第1257回2023年11月24日配信
私の推し活
中学生の頃、教会で聞いた教祖や先人の逸話に心ときめいた。今風に言えば、それが現在まで続く私の「推し」である。
あほう
「あほう」とは一般的には人をののしる言葉で、愚かであることを言い表しています。
天理教では、教祖中山みき様「おやさま」による、「あほうは神ののぞみ」とのお言葉が伝えられています。
これは、こざかしい人間思案を否定する意味において仰せられたお言葉で、どこまでも素直な心、そして「こうまん」のほこりを払った低い心を、神様は望んでおられるということです。
神様の世界と、人間の目に見える世界は違います。時には、神様の思いに沿って生きることが、人から見れば愚かに映ることもあるでしょう。
「世界からあんな阿呆は無い。皆、人にやって了て、後どうするぞいなあ、と言われた日は何ぼ越したやら分からん」(「おさしづ」M32・2・2)
これは、教祖がこの教えを伝え始められた当初、中山家の財産を困っている人々に施された、その人間の常識では考えられない行動を指してのお言葉です。教祖は、たとえ世間の人々から非難を受けようとも、神様の思いに沿い切ることが大切であると、身を以てお示しくだされたのです。
また、こんな逸話も残されています。
明治十九年夏、松村吉太郎さんが、お屋敷へ帰らせて頂いた時のこと。多少学問の素養のあった吉太郎さんの目には、当時お屋敷へ寄り集う人々の中に見受けられる無学さや、粗野な振る舞いなどが異様に映り、軽侮の念すら感じていました。そんなある時、教祖にお目通りすると、教祖は、
「この道は、智恵学問の道やない。来る者に来なと言わん。来ぬ者に、無理に来いと言わんのや」(「教祖伝逸話篇190「この道は」)
と仰せになりました。
このお言葉を承った吉太郎さんは、心の底から高慢のさんげをしたと伝えられています。
私の推し活
埼玉県在住 関根 健一
我が家では、家族それぞれに「推し」がいます。推薦するの「推」に送り仮名をつけて「推し」。一般的に、他の人に薦めたいぐらい気に入っている人物や物を指し、好きなアイドルや俳優、ミュージシャンなどを「私の推し」と言ったりします。
2000年代の初め頃から使われているようで、ひと昔前には「追っかけ」などと言われた行為を「推し活」、イチオシのメンバーを「推しメン」と表現することも一般化しています。
次女が中学生になった頃のことでした。あるテレビドラマに夢中になった彼女が、その出演者の中の一人が人気の男性アイドルグループの一員だと知り、そのグループが出るテレビ番組を欠かさず見るようになりました。
気がつくと妻や長女もテレビの前で一緒に楽しむようになり、家族の中で男一人の私は、なんとなく置いてけぼりにされた感じが面白くなかったので、彼女たちが楽しんでいる横で、ちょっと気になったところにツッコミを入れていました。するとニコニコしていた次女の顔が険しくなり、黙って自分の部屋に戻ってしまう…ということが何度かありました。
こちらは軽い気持ちで面白おかしく言っているつもりでしたが、次女にしてみれば自分の好きなアイドルをからかわれて不機嫌になるのも無理はありません。そんなことが続くうちに私も気まずくなってきて、余計なことはしゃべらずに、一緒に番組を観るようになっていきました。
すると、初めはあまり興味もなく退屈な思いをしていましたが、毎日のように観ているうちに、いつの間にか私もそのグループの中の一人を目で追いかけるようになっていました。
ある日次女に、「お父さん、このグループの中なら〇〇くんが推しかも」と言うと、「でしょ?彼はメンバーの中で男性ファンが一番多いんだよ!」と目を輝かせ、彼の経歴やデビュー前の苦労話などを聞かせてくれました。
なるほど、外から批判的に見ているのと、よく分からなくても中に入って見てみるのとでは大違い。彼のことがもっと知りたくなってきました。それ以来、そのグループのライブ映像を観る度に、家族みんなで盛り上がっています。
ある時、仕事で取引先のスタッフと雑談していた時に、アイドルグループのオーディション番組が若い人の間で話題になっていることを知りました。しばらくして、私が普段動画サイトでフォローしている著名人が、その番組について話している動画が目に留まりました。
「注目すべきは、参加者に対してプロデューサーが掛ける言葉だ。パフォーマンスを評価し、それぞれの課題を明確にし反省させた上で、次のチャレンジに向けて気持ちを前向きにさせる。社員や部下に対する声の掛け方として、すべての経営者は学ぶべきだ」と話していたのを聞き、興味が湧いてきた私は、このオーディション番組を観てみることにしました。
最初はプロデューサーの言葉に注目して観ていたのですが、その言葉に応えて努力を重ねながら、着実に成長していく女の子たちの姿にどんどん引き込まれていきました。
「そうか。みんなこうやってハマっていくんだな…」と気づいた時には、私にも一人の「推し」が生まれ、その子が画面に映ると釘付けになっていたのでした。
とは言っても、相手は娘たちと同世代の女の子です。そこにある感情は、思春期の頃にアイドルにハマった疑似恋愛のようなものとは違い、彼女たちの成長を心から応援する気持ちです。それは、甲子園で白球を追いかける球児たちの姿に、「がんばれ!」と無意識に叫ぶ気持ちに近いかもしれません。
最近テレビで、ボーっと生きている大人を叱る「5歳の女の子」が、「人間は『自分はこれでいいんだ!』と思えるから、誰かのファンになる」と教えてくれました。
心理学の専門家の解説によると、人はアイドルや俳優、ミュージシャンなどに対し、そのパフォーマンスやキャラクターを気に入ることでファンになり、さらに共感するファン同士で仲間を作る。すると、自分が好きなものを好きと言える場所の居心地の良さに気づき、自分と同じ感覚の人がいることで「自分はこれでいいんだ!」という心理が芽生える…という仕組みなのだそうです。
言われてみれば確かに、家族と一緒に「好き」を共有するのはもちろん、最近では同じ「好き」を共有する仲間ともSNSでつながることができます。推しを応援する時は、初対面の人と一緒になり、我を忘れて楽しむことができます。まさに、自分が自分のありのままでいられる瞬間です。
それに似た経験で言えば、私自身、中学生の頃に天理教の教会で聞いた、教祖・中山みき様「おやさま」や先人の信仰者の逸話に心ときめいたことが思い出されます。
そのときめきは、多感な時期の私の心に染みわたり、教会に行くたびに本棚にある「教祖物語」「大工の伊蔵」などの漫画を手に取ったり、「けっこう源さん」「船乗り卯之助」などの劇映画も夢中になって見た記憶があります。
特に、大正時代に東京で単独布教を始め、多くの人を信仰に導いた柏木庫治先生の教話集を手にした時は、読み進めながらワクワクが止まらず、まるで冒険ものの小説を読んでいる気分に浸ったことを強烈におぼえています。今思えば、私にとってこれらの先人の信仰者たちが当時の「推し」で、私を信仰の道に引き寄せてくれたように思います。
そんな「推し」に心ときめいていた時期に、信仰について語り合い、共に笑ったり泣いたりして過ごした仲間たちとの時間も、「自分はこれでいいんだ!」と思える大切な時間だったのだと思います。
振り返れば、信仰に目覚めてから教会長をつとめている現在まで、日々、教えに触れ、人に触れる中で、毎月のように奈良県天理市のおぢばに帰って神殿に額ずき、「自分はこれでいいんだ!」と再確認する。そんな人生を送ってきたように思います。信仰生活こそが、私の人生をかけた「推し活」なのかもしれません。
(終)