(天理教の時間)
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第1276回2024年4月5日配信

人生最大のラッキー

目黒和加子先生
目黒 和加子

文:目黒 和加子

第1232回

その人にしかできないこと

22歳の長女には障害がある。言葉のコミュニケーションは可能だが、生活のあらゆる場面で介助が必要だ。

胸の奥にこの花あるかぎり

「寄り添う力」

 

重い病気や難病を抱えた患者さんの苦しみは、医学が進んだ現在でも、すっきり取り去って差し上げることができないのが実情である。病苦と闘う患者さんに、どう寄り添って力になることができるか……。

看護ようぼくの真価が問われる。

さまざまな問題があるなかで、助言・指導・忠告・説得などで解決することは、すでに大した問題ではないと言える。解決が困難な問題を抱える患者さんに、どうしたら少しでも楽に生活していただけるかと、知恵を絞り、工夫を凝らす。何もできないときも、どこまでも共に歩む。

私が病棟の看護師長を務めていたころのこと。その方は下肢血行障害という病気で、足先に行く血管が細くなり詰まってしまって足の指が壊死を起こし、切り落とさなければならない状況であった。この病気は血液が行き渡らないために足がとても痛むので、患者さんは大変苦しまれる。布団などの掛け物が触れただけでも痛むため、段ボール箱の内側に柔らかいタオルを貼りつけて足をガードしたり、移動するときも細心の注意を払って介助していた。

手術は無事に終わり、血行を良くする薬を注射して血流は改善したはずなのに、痛みは治まらなかった。主治医は、効果の強い痛み止めの使用を指示された。さすがに効果てきめんなのだが、数時間すると、また痛みだす。四時間空ければ使用してよいという指示であったが、患者さんはその時間が来るのをじっと待っておられた。

看護師も前もって準備しているのだが、急なナースコールなどでほかの患者さんに呼ばれて、少しでも注射をするのが遅れようものなら、「私をないがしろにして!」と烈火のごとく怒られた。痛みのつらさは分かっているつもりでも、看護スタッフの間に、いつしか「あんな強い痛み止めは体に悪く、本当は長期に使ってはいけないのに依存してしまって。我慢のない、聞き分けのない患者さんだ」との批判的な思いが芽生えていた。

主治医も「血行障害は改善しているので、痛み止めから離脱できれば退院できる。できるだけ、注射の間隔を空けるように」と言われる。そのため、看護師と患者さんの関係は、痛み止めをめぐって、まるで敵味方のようなありさまとなってしまった。

そこで、科学的な根拠には自信がないものの、昔から行っていたリバノール湿布を提案してみた。リバノールという黄色の消毒液でガーゼを湿らせ、長く伸ばしてからバラの花のような形に丸くまとめたものを痛む足にあてがい、油紙でカバーしておき、乾いたら交換するのである。「そんなの気やすめですよ」という声も聞こえたが、まず、私が病の平癒を願う「おさづけ」を取り次いだ後、患者さんの同意を得て処置を施した。

すると処置を始めてから、患者さんとスタッフの関係に変化が生まれた。看護師は病室に行くたびに、「湿布、まだ乾いてないですかね?」と、足に貼り付けてある湿布の様子を見る。当然、「痛みはいかがですか?」と症状にも関心を寄せ、声をかける。それまでは、痛み止めをせがまれたくないためにその患者さんを避け、病室に行っても、できるだけ目を合わさないようにしていた者もあったのだ。

患者さんのほうも、湿布が始まって看護師たちが頻繁に来てくれるようになって、とても喜ばれた。

「みんなが旗を振って、私が良くなって退院できるのを応援してくれている。頑張らなければ」と、いつの間にか痛み止めの注射を希望する間隔が少しずつ延びていき、ついには退院が実現した。

おそらく、リバノールではなく、看護師たちの頻繁な訪問と優しい声かけに、大きな効果があったのだと思っている。

 


 

その人にしかできないこと

埼玉県在住  関根 健一

 

我が家には二人の娘がいます。今年22歳になる長女は、出産の時のトラブルで、一時仮死状態となった影響で脳性麻痺が残り、今でも身体の障害と知的障害があります。

知的年齢は小学校入学前程度と診断されていますが、言葉によるコミュニケーションはできるので、日常生活で特に困る場面はありません。それどころか、会話の中で流行りのギャグを絶妙なタイミングで言うこともあり、その場の空気を和ませる力はずば抜けていると感じます。

長女は普段、車椅子で生活し、食事や排泄など生活のほとんどの場面で介助が必要です。物を手で持つ時は、指を開いて握らせてあげないとできません。グー・チョキ・パーのようなはっきりした動きは自分一人ではできないのです。

ところが、自分の意欲のあることに関しては驚くほどの上達を見せることがあります。最近では、家にいると自分専用のタブレットに向かうことが多く、気づくと自分で動画配信サービスにつないで、好きなアイドルの動画を観ていたり、形合わせのゲームアプリをどんどんクリアしたりして、周囲を驚かせることもしばしばあります。

そんな長女を見ていると、「好きこそものの上手なれ」という言葉は本当なのだなあ…と感心します。

長女は平日の日中は、生活介護事業所という福祉サービスを受けられる施設に通っています。家の中から屋外用の車椅子への乗り換え、施設までの送迎なども含めて、公費で賄われるサービスで介助者が来てくれるのですが、それ以外の朝晩の食事や着替え、排泄の介助などは家族がすることになります。

私は天理教の教会長をつとめる傍ら、個人事業主として障害者施設の建築設計やデザインを行っています。仕事で帰宅が遅くなることが多く、夜の介助は妻に任せてしまう日がほとんどで、代わりに朝起きた時の着替えの介助はできる限り行うようにしています。

世の中では、娘が思春期を迎えると相手にされない父親が多い中、二十歳を過ぎた娘と二人きりの時間が持てるのはとても幸せなことで、朝の慌ただしい時間をやりくりするのも苦にはなりません。

しかし、長女の介助をしながらも、少なからずその日の仕事のことが頭の中を過ります。

仕事が順調な時は楽しい気持ちでいられますが、時にはミスをしてしまって気持ちが乗らない日もあります。もちろん家族の前ではなるべく顔に出さないようにしていますが、そんな時こそ決まって長女は、「お父さん、大丈夫だよ。悠里(ゆうり)がついてるよ。がんばって」と、私の心の中を見透かしたように言ってくるのです。

その一言で、「長女がついていてくれるなら」と、その日の仕事に対する気持ちも軽くなり、家族のためと思えば身も引き締まります。とは言え、長女がそんなことを言うのは、たまたまなんだろうと、心のどこかで思っていました。

ある時、障害のある家族について原稿を書いて欲しいという依頼がありました。どんなことを書こうかと悩んでいた時、妻の妹と会う機会がありました。別れ際に何の気なしに依頼を受けている原稿のことを話すと、「それは良かったね。悠里ちゃんのおたすけやね」と返してくれました。

その言葉を聞いた瞬間、私はハッとしました。

「この原稿は私にではなく、長女に依頼されたんだ。彼女はおつとめの手も振れなければ、布教に歩くこともできない。でも、彼女は自らの言葉や暮らしを通して、彼女にしかできないおたすけをしている。その様子を皆さんに知っていただくために、私が原稿を書かせてもらうんだ」と、気づくことができました。

そうすると、「悠里がついてるよ」という朝の一言も偶然ではなく、彼女の口を通して神様がおっしゃっているのではないか?と思えてきたのです。

障害者の暮らしに関わっていると、とかくその人の「できないこと」に目が向いてしまいがちですが、どんな人でも「できること」は必ずあります。その「できること」の中に、その人にしかできない人だすけがあるのではないかと、長女との暮らしの中で感じています。

長女が幼い頃からお付き合いのある同級生は、重度の知的障害があり、言葉でのコミュニケーションはできません。しかし、彼の笑顔を見ていると、心から温かい気持ちになり、癒されます。これも彼が「できること」の中での人だすけなのだと思います。

私は障害者福祉施設のコンサルタントなども行っていますが、長女やその友達が、「自分なりにできること」を通して人だすけをしている姿を世に伝えていくことも、私の大切な仕事だと思っています。これからも、長女の言葉を励みに頑張っていこうと思います。

(終)

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