(天理教の時間)
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第1283回2024年5月24日配信

じいちゃんにまた会える日

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関根 健一

文:関根 健一

第1209回

献血のスゝメ

布教生活の最中、多くの仲間が献血センターに足を運んでいたが、私は絶対行かなかった。なぜなら注射が大嫌い!

献血のスゝメ

 岡山県在住  山﨑 石根

 

今から156年前の一年間、私は名古屋で布教生活を送っていました。12名の仲間と寮生活をしながら、朝から晩まで布教だけをする毎日でした。

そんな中、多くの仲間が布教の合間を縫って献血センターに足を運んでいました。しかし、私はいくら誘われても絶対献血には行きませんでした。「布教をサボるみたいだから」とか、「時間がもったいない」などと言い訳を並べていましたが、本当の理由は一つだけでした。

私は注射が嫌いだからです。子どものような理由ですが、ただそれだけでした。注射針が刺さっている腕を見ようものなら、失神しそうな勢いなのです。なぜ病気でもないのに注射をしなければならないのか、理解できなかったのです。

しかし、献血に対して熱い思いを抱いている同室の仲間が、「山ちゃん、献血も立派な人だすけなんやで!」と、私を度々説得してくれました。

どんなに医療技術が進歩しても、人工的に血液を作るのは不可能であること。病気や手術などで輸血が必要な人は、全国に大勢いること。もし自分も含めて身近な誰かがそうなった時、そこに準備される血液は、病院や医療機関が作ったものではなく、誰かが献血してくれたおかげであることなど、仲間は色々なことを教えてくれました。

恥ずかしながら無関心とは恐ろしいもので、初めて知ったことばかりで、妙に惹きつけられる魅力がありました。純粋に、血液を提供するということは、信仰うんぬん以前に献血者の「真実」なのだと思いました。

注射への不安が払拭された訳ではありませんが、怖がる私を半ば強制的に仲間が献血センターへ連れて行ってくれたおかげで、私は人生で初めて献血をしました。

それは、何だか清々しい体験でした。布教活動で断られてばかりの毎日の中で、具体的に誰かの役に立てているという感覚が、とても嬉しく、また弱い自分を勇ませるきっかけになっていたようにも思います。

さて、それから6年の月日が過ぎた10年ほど前、名古屋を訪れる機会があり、私は当時、布教の中で出会ったある男性の元を訪ねました。お互いに近況報告をしていると、彼が嬉しそうに言いました。

「今日、午前中献血に行ってきましたよ」

ところが、名古屋を離れてから一度も献血に行ったことのなかった私は、彼の期待していた反応が出来ませんでした。

「へえ、献血とか行かれるんですね」

これに怒った彼は、語気を強めて私に感情をぶつけてきました。

「何を言ってるんですか! 山崎さんが、献血も立派な人だすけだからさせて頂きましょうって、私に教えてくれたんじゃないですか!」

これだけでも充分カウンターなのに、次の言葉で私は一発KOでした。

「山﨑さんのように頻繁には無理ですけど、大体三か月おきぐらいで行くようにしているんですよ」

返す言葉が見つからないどころか、顔も見られないほど恥ずかしくなり、天理教の教祖「おやさま」からガツンとお叱りを受けたような気持ちになりました。

さしずめ当時の私は、自分が献血を体験できたことが嬉しくて、覚えたての献血の知識をひけらかし、偉そうに「人だすけ」を語っていたのでしょう。それを真に受けて実行しているこの方こそ、信仰はしていなくても「真実」の人だと思いました。

教会に戻った私は、すぐに岡山市の献血センターを訪れました。すると、こんな落第生の私に、教祖はすぐにご褒美をくださいました。

岡山県赤十字血液センターでは、その当時、献血協力者に鉢植えの花を配布するキャンペーンを行っていて、思いがけず花を頂きました。奇しくもその日は私たち夫婦の結婚記念日であり、妻にサプライズのプレゼントをすることが出来たのです。その花は、今でも教会の庭で毎年綺麗に咲いてくれています。

そして、ご褒美と合わせて、教祖は私の心を成人させようと、課題も与えてくださいました。

その年の夏休み前に、当時7歳だった長男が盲腸になり、入院を余儀なくされました。手術も無事に済み、その後の治療も順調だったのですが、手術前後の採血で別の問題点が判明しました。

「お子さんは、血液の数値が非常に低く、いわゆる貧血の状態で、成人なら輸血が必要なレベルです。しかし、今すぐどうこうという訳ではありません。鉄剤を服用しながら様子を見ていきましょう」と、医師から告げられたのです。

こんな近くに血液で困っている人間がいたとは…。息子に直接何かが出来る訳ではありませんが、健康に恵まれ、献血が出来る立場にある私は、もっと積極的に実行しなければならないと、背中を押されている気持ちになりました。

有り難いことに、長男は一年ほどの経過観察で正常値に戻りましたが、その翌年、今度は父が血液の病気になり、半年間、治療と療養に時間を要しました。さらに、同じ頃に私の周りで多くの方が癌などの病気でお亡くなりになるという経験をしました。

自分の献血が、直接家族や知り合いのおたすけにつながるという訳ではありません。でも、必ず誰かのたすかりにつながっているはずだと信じる気持ちが一段と強くなり、その一念でその後も今日まで献血を継続しています。そして、通算回数も間もなく100回目が近づいてきました。

さて、実は私は今でも注射が怖いのですが…。ある日、「ととは献血行ってるから、注射が得意なんじゃなあ」と、同じく注射嫌いの子どもから尋ねられた時、「いや、ととも苦手なんで。でも、誰かのためになるって思ったら、勇気が出るんよ」と、どこか誇らしげに答えることができました。

皆さんも、誰かのたすかりのために、献血をしてみませんか? 人のために尽くす真実を、神様はきっとお喜びくださるはずです。

 


 

なやみ

 

「人は皆、苦しみを厭い、楽しみを求め、悩みを避け、喜びを望む。親神が、陽気ぐらしをさせたいとの思召で、人間世界を造られたからである。しかるに、世には、病苦にさいなまれ、災厄におそわれ、家庭の不和をかこち、逆境にもだえるなど、その身の不幸をなげいている人が多い。それは、親神を知らず、その深い親心を知らないからである」

天理教教典には、こう記されています。(第六章「てびき」)

人生に悩みの種はつきません。人は日常、様々な悩みを抱えながら生きています。仕事が思うようにいかない、人間関係がうまくいかない、経済的に苦しい、など、その原因は無数にあります。

それら悩みの中でも最も直接的で切実なのは、病気やケガによる肉体的な苦しみでしょう。

教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」に、

  どのよふないたみなやみもでけものや
  ねつもくだりもみなほこりやで (四 110)

とあります。肉体に現れる痛みや患いは、すべて良くない心遣いである「ほこり」が積もり重なって、心が曇っている結果である。そのことを自覚し、心のほこりを払うようにと教えられています。

  にち/\にみにさハりつくとくしんせ
  心ちがいを神がしらする (四 42)

  めへ/\のみのうちよりもしやんして
  心さだめて神にもたれよ (四 43)

また、身体のことを指す「身上」という言葉を使って、

「身上悩む/\。身上悩むやない。心という理が悩む。身上悩ますは神でない。皆心で悩む」(M34・1・27)

とも教えられます。肉体上の悩みのもとは心であり、病気やケガは神様が人間に心のほこりを自覚させて、これを掃除させるための「てびき」なのです。

悩みを解決するのに、個人の努力が必要なのは言うまでもありませんが、ただ、あと一歩というところで、神様の後押しが効いてくることが多いようです。問題が起きた時だけでなく、普段の心遣いや周囲の人々と互いにたすけ合う通り方が、悩みを解決する手立てとなるのです。

(終)

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