(天理教の時間)
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第1311回2024年12月6日配信

彼女に足らなかったもの

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1185回

家族

結婚して40年。4人の子ども達や住み込みさんとの教会生活の中で、心の力のつけ方をたくさん学ぶことができた。

家族

神奈川県在住  一瀨 谷津子

 

「おはようございます」

元気に一日のスタートを迎えました。「さあ、今日もがんばろう」と意気揚々としているところに、「昨日頼んだの出来てる?」と、夫から声がかかります。

「まだ出来てないよ、忙しかったから」というや否や、「どうして出来ないの?あれほど頼んだのに」という声に始まり、夫の言葉が雨のように降り注ぎます。

傘を差してしまえば雨も当たらないのですが、傘を差す代わりに「ふうーっ」と息を吐いてしまいました。

さあ!大変です。私が日頃、少しずつためていた心の中のゴミ箱をひっくり返すと、ゴミは風に舞って家中に広がっていきます。私の想いに色でもついていたら、さぞかし賑やかでしょう。風はなかなか吹き止まず、雨攻撃をしてきた夫のあきれ顔にますます心は傷ついて、さっきまでの明るい元気な心が見えなくなってしまいました。

たわいのない日常の中で起きてくる、ちょっとしたケンカの風景です。けれど、こんなちょっとした事の積み重ねが、人生を変えてゆくこともあるように思います。「こんなに一生懸命やっているのに」という、自分の想いで心がいっぱいになると、「ありがとう」という人の想いが入ってくるスペースがなくなります。心の中のシーソーのバランスが悪くなっていくのです。

私たち夫婦は結婚して40年の歳月を重ねました。教会の次男として生まれた夫との生活は、小さなアパートの一室からスタートしました。テレビがなかったのでよく話をしました。水と油ほども性格の違う二人には、このテレビのない生活がとても有意義でした。

ラジオをよく聴くようになり、早朝に放送される「天理教の時間」をはじめとした、たくさんの宗教番組に出合いました。結婚当初、さほど信仰熱心でなかった私にとって、難しい専門用語を使わない優しいお話はとても身近に感じられ、楽しみでした。

その後、四人の子どもを与えていただき、結婚から16年経って主人の実家の教会に戻りました。20代の頃、ラジオの前で耳を傾けていた私が、40年後の今、見えない電波に自分の心を乗せることになりました。

こんな事、夢にも思わなかった。びっくりびっくり、人生は何と驚きが多いのでしょう。そう言えば今の人生、想像もしていないことの連続です。

私はこの40年間で、たくさん心の力のつけ方を学んでいます。たくさん失敗をして、たくさんの大切なことに気づきました。嬉しいことにも悲しいことにも苦しいことにも出合いました。たくさんの人のご縁にも恵まれています。そして、それらの経験から、守られて生きていることを実感しています。

親として未熟なばかりに、子ども達に大変な思いをさせてしまったことをあれこれ思い出します。血尿が出たり、息が出来なくなるほどの症状が出るまで、身体の不調に気づいてあげられなかったこと。学校に行きたがらない次男に、理由も聞かず、心を閉ざしてしまった苦しさを見て見ぬふりをして、叱り続けてしまったこと。数え上げたらきりがありません。いつも自分しか見えていなかった私には、心の余裕がありませんでした。

教会に引っ越した直後、当時小学四年生だった三男の運動会に、お弁当を届けられなかったことがありました。お友達が家族みんなで楽しんでいる光景を見渡しながら、ひとり私たちが来るのを待ち続けた時の寂しさを、成人したのちに涙を流しながら話した息子の顔が忘れられません。

しかし、子どもたちは、そんな数々の出来事の中で、多くの人たちの心に触れ、多くの人たちの中で守られ、私たち夫婦と同じように心を育てて頂き、生きる力を与えて頂きました。

振り返ってみると、小さなアパートの一室からスタートしたその時以来、両親から手渡された信仰が私たちを守り続けてくれました。信仰は人生の羅針盤です。大海原に漕ぎ出す船の道しるべです。行き先が見えずに迷い、立ち止まってしまった時、私たちには足元を照らす確かな道しるべが必要なのです。信仰という確かな羅針盤を持ち続けられたことで、いくつもの荒波を超えられたのだと思います。

おととし、三年間介護を続けてきた義理の母が亡くなりました。私たち家族に幸せの種を持たせてくれた義母(はは)を、子ども達と一緒に見送ることが出来た時、家族としてここにあることに感謝の気持ちでいっぱいになりました。

「おはよう」の挨拶は、朝いちばん、今日一日のいのちを頂いたことへのお礼の言葉だと私は思っています。「おはよう」とひと言かけることが、どんな中にあっても今日一日を明るく楽しく過ごせることにつながると、私は信じています。時には喧嘩もしますが、「おはよう」と声をかけられる家族がいることに感謝です。ありがとう。

 


 

里の仙人

 

人並み以上に霊感が鋭く、人の心の内を見透かしたり、病気を治したり、思うことが思うように実現してしまう。長い歴史の間には、そういう人知を越えた能力を持つ人物も存在したように伝えられています。厳しい難行苦行の末に特別な力を身につけたこのような人たちは、「仙人」と呼ばれ、無欲で世間離れした人のたとえにも使われます。

天理教では、人の救済はあくまで神様のご守護によるものと教えられます。信仰実践において、霊的な力を身につける厳しい修行などは奨励されていません。

教祖・中山みき様「おやさま」は、人里離れた場所で行を積む「山の仙人」ではなく、「里の仙人」に成るのや、と仰せられました。「里の仙人」とは、あくまで社会の一員として暮らしながら、神様の教えを進んで実践し、人々の手本雛型となるような生き方を指します。

このような逸話が残されています。

明治の初め頃、泉田藤吉さんは、大阪で熱心に布教に励んでいました。しかし、なかなか人を導くには至りません。藤吉さんは、心が倒れかかると、わが身、わが心を励まそうと、厳しい寒さの深夜、淀川に出て二時間ほども水に浸かりました。さらに、堤に上がって身体を乾かすのに、手ぬぐいを使っては効能がないと、身体が自然に乾くまで風に吹かれていました。寒い北風に吹かれて身体を乾かすのは、身を切られるような痛みでしたが、我慢してこれを三十日ほど続けました。また、天神橋の橋杭に捕まって、ひと晩川の水に浸かってから、おたすけに歩く日もありました。

そのような道中、ある時おぢばへ帰って教祖にお目通りすると、教祖は、「この道は、身体を苦しめて通るのやないで」と仰せくださいました。藤吉さんは、このお言葉を承り、神様からのかりものである身体の尊さを、身に沁みて納得させていただいたのです。(教祖伝逸話篇 64「やんわり伸ばしたら」)

藤吉さんは、まさに孤高の修行者のように、身体を痛めながらおたすけに奔走していました。このような姿も実に尊いものです。しかし、教祖の仰せられる「里の仙人」になるには、家庭や職場での幾通りもの人間関係の中で、心を治めて通らなければならないのですから、これも決して容易な道ではありません。

平凡な日常の中でも、俗事に紛らわされることなく、常に神様の教えを指針として行動する。そんな「仙人」のような姿が、陽気ぐらしの輪を広げていくのです。

(終)

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